1945年7月16日夜から17日未明にかけ、平塚は米軍機の空襲にさらされた。戦火が迫っているのを感じながら迎えた空襲の日とそれからの日々について、戦争体験者に話を聞いた。
平塚市立高等女学校に通い、学徒動員では航空機のプロペラ部品を作っていたという花水台在住の山口房枝さん(89)。金目の親戚のもとへ疎開する提案を何度も受けたが、須賀で文房具店「かごや」を営む両親と自宅で空襲の日を迎えた。
16日夜、戦地の兄に向け手紙を書いていると空襲警報が鳴った。「非常食の干し飯と、学用品を腰に下げて、息を整えようとかつおぶしのしっぽをしゃぶりながら、ふとんをかぶって逃げました」。翌年に受験を控えた17歳。家の火消しにあたった両親とは別れ、現在の港小学校付近からたった一人で杏雲堂病院(袖ヶ浜)まで走った。家族で決めていた避難場所だったからだ。
「逃げる途中、死んでいる人もいたし、泣いている人もいた。お水がほしいという、亡くなっていく人の声が今も耳に残っています」と目を閉じる。病院の手前の松林で、知らない人と寄り添い震えながら一夜を明かした。海の方から日が昇り、家に向かってとぼとぼ歩いて行くと、煤で顔を真っ黒にした両親がいた。安堵と不安で、肩を抱き合って泣いた。しばらく経ってから近所で塩おにぎりが配られ、無我夢中で頬張ったという。
竹と焼けトタンで小屋を建て、復興住宅に入るまでの5、6カ月を過ごした。終戦後、「焼けていない学校に通いたい」と、皇居近くにあり無事だった大妻女子大学へ。「師範学校に行けば、勤労奉仕しなくちゃいけない。おしゃれして銀座を歩きたいという普通の女の子の望みを、叶えてあげたいと母も言ってくれた」と今でも感謝する。窓から飛び乗らなければいけないほどの満員電車が復興への活気を感じさせた。
親戚の家に疎開させていた写真には、出征を控えた兄たちや、戦時中に結核で亡くなった姉、そして幼稚園として通っていた長楽寺で撮影された幼少期の山口さんの姿がある。山口さんはその写真と記憶をアルバムにまとめ、「平和という言葉を使うのは簡単。でもその本当の意味を理解するには、苦しみがあったことを知らないとダメなの」とそっと胸に抱いた。
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