江戸時代後期に全国行脚し信仰を広めた浄土宗の僧侶、徳本上人(とくほんしょうにん)が平塚にも訪れていた――。今年10月で200回忌を迎える徳本上人にゆかりのある寺は市内にも10カ寺以上あり、信仰を象徴する徳本名号塔は28基に及ぶ。これは県内でも最も多く、平塚での信仰のあつさが伺える。
徳本上人は1758年(宝暦8年)、和歌山県日高町の農家に生まれた。友人の死をきっかけに4歳で念仏を行い、27歳で出家。厳しい荒行ののち、40歳を過ぎたころ全国行脚の旅に出た。
徳川家や御三家の後ろ盾もあり、名僧として知られていた徳本上人。わかりやすい説法と、鉦(かね)や木魚を激しく打ち鳴らす独特の念仏が人気を博し、信仰は武家だけでなく庶民にも浸透した。
上人は、念仏の回数が多いほど大きいお札を授け、上人直筆のものを与えることもあった。徳本名号塔に刻まれた「南無阿弥陀仏」はそのお札を転写し彫られたもので、お札の大きさをそのまま表している。丸みのある、流れるような筆跡こそ徳本上人の特徴で、全ての名号塔に共通している。
最初に平塚を訪れたとされるのが1814年(文化12年)だ。伊豆方面へ向かう途中の8月27日〜29日の3日間、大松寺(中原)に立ち寄り、念仏行事を開くと3万人以上が参加したという。その後も海宝寺(幸町)や大念寺(四之宮)、光明寺(南金目)を訪れ念仏の布教につとめた。上人は浄土宗だが、天台宗の光明寺や大乗院(土屋)にも足跡が残っていることから、徳本上人の信仰が宗派を超えたものだったことがわかる。
平塚市博物館の浜野達也さんは「平塚の徳本信仰の特徴は、上人の没後にある」と話す。上人の死後、平塚や伊勢原、秦野、大磯、二宮、厚木南部の旧中郡地域は東組、北組、仲組、西組という4つの組織に分けられ、毎年1月中旬から春にかけ、徳本上人ゆかりの念仏講が100年以上続いた。
先導したとされるのが、徳本上人から得度をうけたという徳延村の称善和尚だ。宗源寺(纒)を菩提寺とし、徳本上人の生前の文化13年に建てられた市内最古の徳本名号塔(大松寺)にも、寄進者として筆頭に名前が刻まれている。
戦後になると実施する組は減ったが、宗源寺が取りまとめ役をした仲組は、徳本念仏ではなく「大会念仏(おおがいねんぶつ)」という名称で十数年前まで継承されていた。大会念仏は、徳本上人の坐像(宗源寺)と、鉦や掛け軸などの念仏の道具、供物台などを荷車一台に積んで、大きな会場を移動するもの。近年では公民館などを会場に開催していたが、昔は十分に人が集まれるほどの敷地を持った個人宅2、3軒を開放し、他村から来た講中をもてなしたといわれている。娯楽が少ない時代の一大行事だったのだ。
「記録にはなくても、これだけの有名な僧侶が訪れればたくさんの寺院が接待など協力したのが想像できる」と浜野さん。現在でも大松寺や大乗院など、個々の寺で徳本念仏を実施しているという。
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