京都や福岡からもルーツ求め訪問者
平安時代末期〜鎌倉時代初期を生きた武将、土屋三郎宗遠(1128年-1218年)を供養する「八百年遠忌法要」が5月6日(日)、大乗院(土屋200)のほか、土屋一族の五輪塔が並ぶ墓苑で実施される。午前10時から大乗院本堂で法要、午前11時に墓苑へ移動し墓参りする。土屋三郎宗遠公遺跡保存会(杉山昇会長)の主催。
宗遠は、鎌倉幕府の立役者とも言われる源氏方の武将。伊豆に流罪となった源頼朝が挙兵した「石橋山の戦い」(小田原)では、同じく市内の武将の真田与一と共に加勢し、敗戦後も頼朝が房州へ逃げるのを手伝った。90歳まで生きたという宗遠は晩年も鎌倉を訪ね、3代将軍実朝まで幕府を支えた。
平家物語や金槐和歌集、曽我物語など平安時代〜鎌倉時代を描いた古典文学に相模国以外の土屋氏が出てこないことから、同会は土屋地区が「土屋氏発祥の地」と推測。噂を聞きつけて京都、福岡、岐阜、埼玉、新潟など、各地の土屋姓の人が自分のルーツを求めて大乗院や墓苑を訪れているという。同会は没後800年を記念して、墓苑の近くに「土屋氏発祥之地」と記した石碑を建てた。
「発祥の地」でありながら現在、同地区に古くから住む土屋姓はいない。同会で文献の研究を続ける関野勝久さん(70)は、「戦国時代という時代背景から、生き延びるために名字を変えたのでは」と想像する。
12代宗貞あたりまでは同地区に領地を持っていた土屋氏だが、室町時代の1416年、関東の統治にあたっていた足利持氏に対する反乱「上杉禅秀の乱」で、上杉方につき敗れた。土屋氏は領地を追われ、伊豆・山梨方面に逃げ延びた。
そこで仕えたのが武田家だ。17代昌遠は、武田信玄の父で、息子の手によって領地を追いやられた信虎と共に沼津に移った。昌遠の実子、円都は徳川家康に仕え、上京中に失明したが、当時の盲人の役職「総検校」につき、寺などを監督した。
武田信玄が信虎を追放した直後、家臣だった金丸氏に土屋の名跡を継がせたとされていることから、同会では金丸氏系を「甲州土屋氏」、土屋地区の直系を「相州土屋氏」として区別している。のちに土浦城主(茨城)となり、江戸幕府の老中として活躍した土屋政直は甲州土屋氏だ。
相州土屋氏の直系はというと、徳川幕府のもと、書院番や納戸頭、藍の買い付けを許された紺屋頭などを受け持った。源氏、北条氏、足利氏、武田氏、徳川氏など有力大名に仕えることで戦乱の世を渡りながら、土屋の姓は各地に広がっていった。
杉山昇会長(82)は、「当時の世の中が混沌としていたことを表すように、それぞれの説は複雑で言い切ることはできないが、ロマンを感じながら会を続けていきたい。墓苑を守り、今後も研究をしていく」と話していた。
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