1945年7月16日夜から17日未明にかけ市街を襲った「平塚空襲」から73年が経った。戦時中、市内各地ではどんな暮らしがあったのか。戦争体験者に話を聞いた。
南金目在住の小澤節子さん(82)は、疎開先の広川で終戦を迎えた。当時小学校3年生。親元を離れて暮らす不安から「毎日泣きたいような気持ちだった」と振り返る。
両親と姉、弟の5人で暮らしていた横浜市南区中村町は、軍の関連工場が近くにあり「いつか空襲がくる」と言われていた。姉は身体が弱く、弟はまだ小さかったため、祖父がいる広川へ疎開したのは自分だけだった。
隣には、東京から疎開した子供がいて、遊び相手はたくさん。木登りをしたり、芋団子を食べたりして過ごした。「善福寺には兵隊さんが駐屯していて、お風呂を借りにきた」と小澤さん。風呂にためる井戸水を汲むのが子供の役目だった。
金目村国民学校(現・金目小学校)まで金目川沿いの道を歩いて通学した。空襲警報が鳴ると、通常の通学路では隠れる場所がないため、小学校の裏の山を越えて帰宅しなければならなかった。「子供の足だから、山を登るのが辛くて。男の子たちは飛行機を見るからって仰向けに寝転がっていたけど、私は怖くてしょうがなかった」。麦畑やトマトなど、背の高い草むらに入り身を隠した。
7月16日、近所の防空壕に入った。「お尻からドスン、ドスンと音がした。火薬廠の方が真っ赤だった」と今でも鮮明に思い出す。米軍機が去り、防空壕を出て高麗山辺りを見ると、紫や赤にちらちら光る火花を見た。「今思えば山に爆弾が落とされたのかもしれない。でも当時は小さかったから、花火みたいだなぁ、と眺めていた」と回想する。
「早く戦争終われ」と、家族が恋しく何度も祈った。終戦を迎えたが、横浜の家も空襲で焼けてしまったため父が迎えに来たのはその年の冬だった。
小澤さんは「子供を手離すのがどんなことか。もう絶対に戦争はしてほしくない」と語気を強めた。
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