1945年7月16日夜から17日未明にかけ市内を襲った「平塚空襲」から74年が経つ。当時の金田村で空襲を体験した人に話を聞いた。
「終戦時は17歳。だいたい記憶がある」と話すのは入野在住の横尾善蔵さん(91)。小作人の家の次男で、出征した兄に代わり農業を手伝っていた。「たとえ戦争中でも、暮れになると年貢米を持って行った。残った米は麦を混ぜて食べていた」とささやかな食卓を思い出す。白米を食べられるのは正月だけだったが、イモや麦など食料には困らなかった。
家業を守った17歳
戦争終盤に差し掛かった頃、7、8人の兵隊が自宅で寝泊まりした。「将校は威張っていたからすぐ分かった。うちにいたのは、たぶん下っ端。何かを用意しろだとか、そういうことはなかった」と話す。2学年上の男性たちの多くは戦地に行っていたが「家業を守ることだって同じくらい大切だと思っていた。兵隊を見て、憧れるという気持ちはなかった」と振り返る。
金田村消防団に入っていたため、空襲の夜は火消しに回った。成願寺近くを流れる農業用水から水を汲み、4人ほどでポンプを漕いで放水した。「せいぜい2、3メートルしか届かなかった。とうとう何も消せなかった」と翌朝、焼け跡と化したまちに肩を落とした。自宅は焼けずに無事だった。
東京で放送局に勤めていた親戚が作ってくれた即席のダンボールラジオで玉音放送を聞いた。兵隊に行っていた兄は44年4月26日、2088人を乗せた輸送船「第一吉田丸」で南方に向かっていたところ敵の攻撃に遭い、船は沈没した。「いつだかは忘れてしまったけど、兄の遺骨が届いた。開けてみたら中身は空っぽで、それだけ」。生き残った約600人の乗組員が、遺族に向けた追悼冊子を発行したことで、やっと詳細が分かったという。
数年間は終戦の実感もないままだった。組ごとに順番で行う共同田植えなど、働き盛りの若者として忙しなく過ごした。「軍隊にも行っていないし、戦争自体が何だったのか、よく分からないまま」とつぶやいた。
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