1945年7月16日夜〜17日未明に市内を襲った「平塚空襲」からきょうで75年。空襲を体験した少年は戦中、戦後をどう生きたのか。
桃浜町在住で小笠原医院(見附町)の院長の小笠原勲さん(88)は13歳のときに平塚空襲を経験した。海軍火薬廠で火薬技師をしていた父の影響で、当時暮らしていた京都府舞鶴市から平塚に戻ったのが小学校6年生の時。既に定員に達していたため地元中学には進めず、現在の明石町から自転車で1時間かけて秦野中学校に通っていた。
空襲の日、父は火薬廠にいたため、祖父と弟を背負った母と共に、八雲神社(中里)まで夢中で逃げた。思い出の品を持ち出そうとする祖父をせっつきながら、自分は学用品だけを鞄に詰めた。家を先に出たはずの祖母と姉、妹の姿はなく、土地勘があるから大丈夫だろうと思いつつも、夜が更けるごとに心配が募った。馬入方面に逃げていた祖母たちと再会できたのは翌朝家に戻った時だ。被害を聞きつけた親戚が岡崎からおにぎりをいっぱい作って駆け付けてくれ、その時初めて、お腹がすいていたことに気付いた。小笠原さんは「おいしかったなぁ」と今もその味を懐かしむ。
明かり求めて平塚駅で勉強
火薬廠に勤める父や、そこに出入りする優秀な学生を見て感じていたのは勉強する大切さだった。「これから生きていくには、自分で学ばなければどうにもならない」。戦中は勤労奉仕、戦後は復興作業と、学ぶ機会が限られる中、自転車のかごに教科書を立てかけ、通学時間も勉強に費やした。夕食後は明かりを求めて唯一電気が通っていた平塚駅に足を運び教科書を広げた。帰宅途中のサラリーマンが「今日は英語か、数学か」と勉強を教えてくれたのも忘れられない。中学卒業後は湘南高校に進学、日本医科大学時代には済生会病院でインターンし、実践から学んだ。
小笠原さんは「父は火薬廠に勤め、間接的とはいえ随分人を殺してきたと思う。それを思うと、僕は人の命を救うことをしようと思った」と医師を志し、戦後を生きてきた。「戦争なんてやらないほうがいい。殺されちゃったら何にもならないんだから」と戦争を知らない世代に向けてそっと言葉を残していた。
|
|
|
|
<PR>
平塚・大磯・二宮・中井版のローカルニュース最新6件
|
|
納税表彰に22個人・団体11月22日 |
|
|
|
|
<PR>