花水台在住の二宮京二さん(93)は1926年、上吉沢に生まれた。中学3年生のときに兵隊募集の案内を見て入隊を志願。審査に合格し、42年9月に横須賀第二海兵団に入団した。
「飛行機に乗りたい」と航空兵を希望したが不合格。整備兵として、厚木航空隊に配属された後、43年6月、戦場となっていたサイパンやフィリピンを支援するための太平洋の警備任務についた。拠点のトラック諸島までは、横須賀から商船を活用した改造母艦で向かったという。
トラック諸島では水上でも着陸できるようフロートがつけられた「二式水上戦闘機」を整備。任務を終え拠点に戻ってきた戦闘機の機体を、翼からプロペラまで雑巾で拭き、塩による腐食を防いだり、海上に停泊する機体まで100mほど泳ぎ、フロートにたまった水を抜いたりした。「何度も水を抜くのは大変だった」と振り返る。
近付く敵の攻撃
44年2月、二宮さんのいたトラック諸島も、数回に渡り米軍の空襲を受けた。全ての戦闘機のほか貨物船50隻が沈没。燃料タンクが破壊され1週間燃え続けた。兵舎もなく、防空壕に寝泊まりする日々だったが、「空襲は毎晩続いた。弾が落ちてもよく眠れましたよ」と笑う。
トラック諸島に敵が上陸するという話が出たのが5月。「戦え」と渡されたのは手りゅう弾3発だった。山中に陣地を作り、穴に隠れて敵を待ち構えた。二宮さんは「敵は機関銃で撃ってくる。それなのに手りゅう弾3発で戦えなんて、悲しかった。早く死にたいという気持ちだった」と、今でも思い出す。
その後、敵の上陸前に二宮さんは飛行艇でフィリピンに送られた。ミンダナオ島に無事着陸したが、敵の空襲情報が入りマニラへ。たまたま食料供給のため停泊していた航空母艦で、二宮さんは佐世保に帰還した。2泊3日の休暇をもらい、上吉沢の家族のもとに帰ることもできた。
その後は整備学校に通い、卒業後は茂原海軍航空隊(千葉県)に入隊。20年8月15日の朝、一番に飛び出していった戦闘機が戦わずに帰ってきたことに「変だなぁと思った」と二宮さん。まもなく終戦を告げられた。
二宮さんは「僕が無事に帰ってきたのは奇跡。運がよかっただけ」と繰り返した。
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