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平塚・大磯・二宮・中井 社会

公開日:2022.03.03

わたしと戦争
加害の連鎖 満州で実感
横内在住 浦本ハルエさん

  • 満州での体験を話してくれた浦本さん

 「黒河(こっか)、満州里(まんしゅうり)、ハルビン…」。横内在住の浦本ハルエさん(99)が指折り繰り返すのは、かつて暮らした満州国にある地名だ。熊本県天草郡の合津に生まれ、満州事変(1931年)後にウラジオストクから満州に渡っていた叔母夫婦を頼りに、働き口を探して13歳で単身大陸へ。3歳の時に父が亡くなり、女手一つで育ててくれた母を「楽にしてあげたい」という一心だった。

見送りに涙

 「さみしさよりも、天草より都会の満州に行けることがうれしかった」と話すが、下関で連絡船に乗るとき、母と兄、姉、近所の人々に熊本弁で見送られると涙が頬を伝ったという。釜山港で荷物検査を受けた後、列車に数日ゆられて、叔母夫婦の待つ満州国・ハルビンに向かった。

 求人チラシを見て応募したのが南満州鉄道の食堂給仕の仕事だった。採用の知らせが届くと、叔母と連れ立って百貨店等が並ぶキタイスカヤのまちに通勤着を買いに出かけた。「氷点下50度にもなる地域。シューバ(毛皮のコート)や帽子、手袋、防寒靴を揃えてもらった。うれしかった」と顔をほころばせる。

 「食堂車は前から2両目。急ぎの人はカレーライスかハヤシ、ゆったりな人は洋定食を注文する。『おまちどおさま』と運ぶのが仕事でした」。同僚には同じ年ごろの中国人とロシア人の女の子がいたという。「乗務員は同年代の男の子が多かった。みんな良くしてくれた」と話す。

苦しい戦後

 44年に結婚、翌年には長女を出産した。激化する第二次世界大戦の戦況は知るすべもなかったが、夫に召集令状の赤紙が届いた。「女しかいない家だと知られるのが嫌で、赤紙が届いた人は夜中のうちに家を出るものだった」。家には義母と長女だけ。「もうきっとロシア兵に殺されている」と覚悟していたが、夫は終戦から2カ月後に、たっぷりとひげを蓄えて帰って来た。義母が飛び跳ねて喜んだのを覚えている。

 「一番つらかったのは終戦後」と声を落とす。夜中にドンドンと戸を叩く音が聞こえ、ロシア兵3、4人が土足で畳に上がってきたことがあった。たんすの引き出しを端から開け、赤い長じゅばんや夫の背広を持って行った。とっさに長女をおぶうと、隣で義母がロシア語で兵士たちに語りかけていた。「お義母さんは『あんたたちも親のない子じゃないでしょ。親に心配かけちゃだめよ』と諭していたみたいです」。ロシア兵は「もうすぐママのところに帰る」と言い残し、敬礼して出ていったという。

日本への長い道のり

 終戦してすぐ引き揚げ命令が出たものの、実際に帰ることができたのは3年後だった。夫のリュックいっぱいにロシアパン、義母には長女のさらし2反分で作ったおしめを背負ってもらい、列車で引き揚げ船の出る葫芦島(ころうとう)を目指した。「日本が勝ってるときたくさんいじわるをしたツケでしょうね」。屋根もなく雨風をしのげない貨物列車に乗せられ、駅ごとに中国人の駅長に金を払わなければ、列車を出してもらえなかった。なんとか港に到着し、博多から天草へ帰った。その後、働き口を求めて、神奈川県に移り住んだ。

 ハルビンでの暮らしは、中国人、ロシア人、ユダヤ人、日本人という人種の垣根を超えた、楽しいものだったという。「パンや餃子を焼いたらおすそわけして、近所の人みんなで助け合った。みんな元気にしているだろうかと何度も思い返した。でも日本は戦争に勝ち続けて天狗になり、ロシア人や中国人をたくさん殺している。その仕返しを、負けたときに私たちが受けたんだと思うんです」。浦本さんは繰り返す。「戦争はつらいことが連鎖する。だから絶対にしてほしくない」 

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