大正12(1923)年9月1日の大正関東地震によって引き起こされた関東大震災。全国の死者・行方不明者は約10万5000人に上り、10万棟を超える家屋を倒壊させた。震源から近い平塚市にも甚大な被害を及ぼし、多くの市民が犠牲となった。史上最悪の自然災害からあすで100年--。当時の被害を振り返り、来たるべき大地震に備える契機としたい。
相模湾北西部を震源とする推定マグニチュード7・9の大地震は、平塚市域にも死者476人という未曽有の被害をもたらした。人的被害は、当時の人口の1・7パーセントに上ったという。
発生時刻は午前11時58分で昼食の時間に重なったが、市内では住戸火災などの被害は少なかった。しかし海軍火薬廠では、研究部棟試験室内のガス管が地震の揺れで破裂。薬品庫や材料倉庫、第四工場のほとんどを焼き、アセトンとグリセリンのボンベに引火して大爆発が発生し、死者4人、負傷者2人の被害が出た。
4192戸が全壊
家屋の全壊は4192戸に及ぶなど、犠牲者の死因の多くは火災よりも建物の倒壊によるものだったとされる。
平塚駅では駅舎が全壊。列車の到着を待つ100人以上が下敷きとなり、5人が犠牲となった。現在のJT平塚工場跡にあった相模紡績平塚工場は工場が全壊し、寄宿舎で就寝していた約60人の女性労働者を含む計144人が死亡した。
液状化で被害拡大
家屋が倒壊した原因は揺れの大きさだけでなく、市内各地で発生した「液状化」も関係している。特に、市南部の砂州砂丘地帯よりも川により形成された北部の自然堤防地帯の方が家屋倒壊率が高かった。
実際に、地域別の家屋倒壊率は神田地区が最も高く、平塚市史には3戸を除き「百八十戸以上ノ居宅ハ全部倒壊」との記述がある。液状化は他にも、東海道本線が通る相模川の馬入鉄橋の倒壊被害を生み、交通の大動脈が寸断された。
四之宮に津波遡上
地震による被害には津波も挙げられるが、市内では関東大震災による大きな津波被害は確認されていない。しかし、四之宮周辺まで津波が遡上したという話や、船だまりの船は全て流されたといった情報もある。
社会不安あおるデマ
市民が大きな混乱に揺れる中、さまざまな「デマ」も流布した。
平塚や大磯では、地震当日に再び大地震が起きたり津波が押し寄せたりするといった風評が罹災者を狼狽させた。朝鮮人が襲来するといった流言飛語も飛び交い、平塚町では朝鮮人が群衆に殴られ、警察に救助されたという記録が残る。
9月1日が「防災の日」に定められるきっかけとなった関東大震災。100年前の被害から、現代の防災を考える上で学ぶべきことは多い。
※写真は全て平塚市博物館提供
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