いつも「ひらつか歴史ばなし」をお読みいただきありがとうございます。平塚にゆかりのある人物のエピソードや平塚で起こった出来事などを物語形式で掲載してきましたが、その物語の実際の舞台も紹介したいと思います。
今年の大河ドラマ「光る君へ」の主人公は、紫式部(むらさきしきぶ)。世界最古の長編小説と言われる『源氏物語』の作者です。
その『源氏物語』が読みたくて読みたくて仕方がない少女を「もろこしが原と『更級日記(さらしなにっき)』」で描きました。少女の名前は分かりません。「歴史ばなし」の中では、二ノ姫としました。当時、女性の本名が記録されることはほとんどありませんでした。紫式部や『枕草子(まくらのそうし)』の清少納言(せいしょうなごん)でさえ本名ではありません。この二ノ姫も菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)としか伝わっていないのです。
父の菅原孝標は、寛仁元年(一〇一七)上総介(かずさのすけ)(上総国〈現千葉県〉の実質上の長官)となり、一家で任地に赴きました。任期が終わって一家が帰京するときのお話です。京都に帰れば、大好きな物語をたくさん読めると、うれしさいっぱいの二ノ姫は十三歳。この帰京の旅路で、現在の平塚市域を通ることになります。
『更科日記』には「もろこしが原といふ所も砂子のいみじう白きを二三日行く」とあります。「もろこしが原」は、金目川(花水川)河口西岸辺りとされており、渡来人たちが移り住んだ場所と考えられています。かつて中国大陸にあった王朝「唐(とう)」を「もろこし」と呼んでいて、そこから中国のことをそのようにも呼びました。現在、ここには「唐ケ原(とうがはら)」という地名があります。
『更科日記』は続けて、「夏はやまと撫子(なでしこ)が濃く薄く錦を敷いたように咲く。今は秋も末なので見られないというが、点々とこぼれ残ったように、もの寂しそうに咲いている。(異国の名である)もろこしがはらに、(我が国の名の)やまと撫子が咲いているなんてと人々は面白がった」と記しています。
一行は、三か月ほどで京へ帰りつきました。ちなみに『更級日記』は、孝標女が晩年になって昔を回想しながら書いたものといわれています。
紫式部も越前(えちぜん)国守(長官)になった父について地方へ下向しますが、孝標女より百年以上前にも、一人の娘が東海道を下向しています。『新編相模国風土記稿』(江戸時代の地誌)には、里人の伝えるところとして、高見王(たかみおう)(桓武天皇の孫)の娘である政子が、平塚の地で亡くなり、その葬られた塚の上が平らであったことから、これを平塚と呼ぶようになったとあります。彼女の下向の理由は分かりません。兄弟である平高望(たいらのたかもち)(桓武平氏の祖)が上総介になっているので、それと一緒に下向したとも考えられますが、没年等で疑問が残ります。いずれにしても、平塚の地名の由来については諸説あって、はっきり分かっていません。
文/平塚てづくり紙芝居の会 たもん丸
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