全国から少年集まり7人1部屋の寮生活
田村在住の金子次男さん(88)は、海軍火薬廠の22期生だ。「7人部屋の寮生活は泣いたり笑ったり」と、同期の仲間と休日に川に遊びに行ったときの写真を眺める。海軍の錨マークがついた揃いの帽子が、どこか誇らしげだ。同郷から火薬廠に就職した3人は既に他界している。
8歳から通っていた神田村国民学校(現・神田小学校)には、軍兵士が約20人と、馬5、6頭が駐屯。校舎で寝泊まりし、校庭の半分が馬小屋などに使われた。家が学校の並びにあった金子さんは軍人が前を通るたびに「かっこいいなぁ」と見送ったという。
晴れた日は勤労奉仕として麦刈りや芋堀など男手のいない農家の仕事を手伝った。「雨の日に学校に行って友達とふざけっこするのが楽しかった」と金子さん。高等科を卒業し1945年、15歳で海軍火薬廠に就職、月給は24円だった。
兵舎と呼ばれていた寮は現在の六本交差点付近にあり、九州から北海道まで、同年代の少年180人ほどが生活していた。工員養成の側面が強く、朝8時から夕方5時まで数学や国語、化学、機工などを学んだ。「海軍式の35度の敬礼だった。夕飯後には別科として手旗信号や棒倒しをしていた」。夜9時に消灯しやっと眠りについても、すぐに空襲警報が鳴り飛び起きる生活だった。
2週間に1回許された外出で家に帰ると、母に「お前、毎日泣いているのか」と聞かれた。「悲しい顔をしていたんだろうね」。仲間との生活はにぎやかだったが、軍同様に罰則も厳しく、つらいこともたくさんあった。
平塚空襲の晩、焼夷弾が落ちるよりも前に、海軍上層部が少年たちを平塚八幡宮へ逃がしてくれた。「ケガ人と死人がどんどん運ばれてきた。市民も逃げてきて、人の山だった」。空襲後は急きょ卒業させられ、奥多摩で電柱を運ぶ電気工の仕事に就いた。玉音放送を聞いたのは、八王子で仕事をしている最中だった。
「戦争は、みんなが嫌な思いをして、巻き込まれていった」と金子さん。「もう二度と戦争はしてほしくない」と、何度も繰り返した。
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