なでしこ幼稚園の顧問を務める灘波京子さん(89・旧姓・磯村)は、城島村立城島小学校6年生のときに終戦を経験した。子どもながらに覚えているのは農家の手伝いに、米軍機の操縦士の顔、平塚空襲の真っ赤な空。現在、園児の目にロシアのウクライナ侵攻の映像がどう映るのかを考えては「戦争は嫌だねと伝えたい」と繰り返す。
生まれは福島県の郡山。中学校教諭の父と、小学校教諭だった母のもとに生まれた。1943年に父の地元の小鍋島に戻り、小学3年生から城島小に通った。学校生活に変化が起きたのは小学4年のころ。農家の働き手が戦地へ出征し、田植えや稲刈りのほか、子どもの世話などの手伝いに集められた。6年生の頃には城島地区の新聞配達も任され、男子児童が田村方面から持ってくる新聞を折り、一軒ずつ配った。「寒いと男子が新聞を燃やして焚火にしちゃうんです」と笑う。
初めて米軍機を見たのは5年生のとき、紀元節(現・建国記念の日)の式典の帰り道だった。友人と下校していると低空飛行で近づかれ、パイロットの顔が見えるほどだった。普段から「身を隠せ」と先生に言われていた通り、田んぼに水を引くための溝に身をふせた。「2月で田んぼに水が引かれてなかったからよかった。怖いというより、ただびっくりした」
案じる心 託したミシン
45年7月に父が出征。4人の子どもを置いていくことを心配してか、子ども服が作れるようにと母に古い足踏みミシンを買ってきた。「物がない時代。無理をして買ってきてくれたんだと思う」と家族を残す父の葛藤に思いを馳せる。戦死を覚悟していたが、終戦後の9月に父は生還した。
家族で見た赤い空
平塚空襲の夜、家の外に出ると祖父母と兄、妹、母が平塚市街地方面を見つめていた。八重咲町にはおばたちが住んでいた。真っ赤な空を見て「どうしたの?」と尋ねると、母は「空襲で燃えているんだよ」と教えてくれた。腕時計の文字盤が火の光で見えるほどだった。母が急いで作った白米のおにぎりを持ち、祖父が自転車でおばの元に向かった。
終戦から10年後、なでしこ幼稚園は開園した。旧東海道は整備されていたが、まちにはバラックが建ち並び、子どもは道路で遊んでいた。「私は母がミシンを踏む姿を見ていたから洋裁の仕事を志望していましたが、父が開園すると聞き、すぐに幼稚園で働くための資格を取りました」
開園を決意した父の「これからの日本を作るのは子どもたち」という言葉は今も色あせずに心にある。灘波さんは揺らぐ世界情勢を見つめながら、「戦争ってどう思う?」と子どもたちに投げかけていく。
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