明治期の自由民権運動が盛んだった金目村に、大志を抱いて単身渡米した青年がいた。猪俣弥八(1868〜1902年)は、現地外交官の伴新三郎らと共に在米邦人の生活支援に力を注いだほか、日本人娼家排斥運動を展開。現地誌に取り上げられるほどの存在だったが、35歳で強盗に銃殺された。河内在住でNPO法人「雨岳文庫を活用する会」の岩崎稔さん(75)や親族の研究により存在が明らかになった。
猪俣弥八は明治元年の3月、金目村の農家の次男として生まれた。大磯の叔父の家に泊まっては花街遊びに繰り出す若者だったという。
そんな弥八を変えたのがキリスト教の教えだ。「ただ無為に生きるのではなく、人のため、何かを成し遂げるために生きる」という教えは、放蕩生活を送っていた弥八に衝撃を与えた。1886年には、「金目の民権トリオ」として知られる宮田寅治、猪俣道之輔ら7人と共に受洗。西洋の学問に触れ、ルソーやロックなどの啓蒙思想家の書物を原書で読みたいと米国留学を決意した。
1888年2月、貨物船で渡米。その資金をどう工面したかは不明だが、船の中で働きながら海を渡ったと親族に伝えられている。
現地高校に通った後、オレゴン州立大学に入学。日系人の就労支援に取り組んでいた伴に共感し、伴が経営する鉄道建設会社「伴商会」に入社した。ワイオミング州の支部長を任され、友人と栄転の祝いを料亭であげた際には「(弥八は)満腔の抱負を以って意気揚々」だったことが追悼誌で語られている。
弥八が積極的に取り組んだ活動として、日本人娼家の排斥運動がある。明治期に日本でも布教活動を行ったハリス牧師の指導によるもので、反発する動きもあったため、十勇士を募り娼婦を置く家を周り、廃業を迫った。教会で娼婦を匿うと、取り返しに来た者といさかいになったこともあり、命の危険を冒してまで活動する弥八の姿は話題を呼んだ。現地の雑誌に取り上げられるほどだった。
信念を持ち奔走する弥八を銃弾が襲ったのは1902年5月。銀行で給与300ドルを引き出したところを、部下の労働者につけられ、銃殺された。
約1カ月後、金目の家族の元に遺髪と写真、卒業証書と共に訃報が知らされた。弥八の死を伝える日系新聞の切り抜きや追悼誌、領事館からの手紙も届いたことから、現地日本人にとっても弥八の死が衝撃的だったことが伺える。
弥八の子孫にあたる猪俣立子さん(66)は、「家族の間でもよく分からなかった弥八さんの人生が浮かび上がった。本人も約120年越しに注目されてびっくりしているのでは」と目を細めていた。岩崎さんは「生きていたら、素晴らしい活躍をしたのだと思うと悔しい。弥八の存在を伝えたい」と話していた。
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