日本国憲法の制定過程から学ぶ 幣原内閣の政権維持と鳩山一郎 〈寄稿〉文/小川光夫 No.57
57 鳩山一郎の公職追放と大磯の吉田茂総裁の誕生
児玉誉士夫と鳩山一郎の関係はどうであったろうか。その児玉は右翼の岩田富美夫から三木武吉を紹介されて、その三木から度々小遣いをもらっていた。そうしたことから児玉はいつしか三木と同じように鳩山を支える重要人物になったのである。しかし、その鳩山は組閣の直前に公職追放となり、首相後継者を鳩山自らが決定しなければならなくなった。松野鶴平、河野一郎、辻嘉六との話し合いで候補者に挙がったのが政友会総裁の小島一雄であったが、75歳という高齢のために承諾を得ることができなかった。続いて河野一郎から外務事務次官、宮内大臣などを歴任した松平恒雄を推薦する声があがったが、しかし松平もまた政治家としての経験がないなどの異論がでた。また芦田均が自ら立候補する意思を表明したことから総裁選びは紛糾した。そうした中で松野鶴平によって吉田茂外相の後継総裁の動きが密かに行われていた。鳩山は吉田茂を総裁にする気持ちはなく、松野が勝手に動いたことに不満を顕わにしたが、結局、「宮中への信頼、国際的な信用」などを考えると吉田茂しかいなくなった。鳩山一郎は、渋々外務省官邸に吉田を訪ね、総裁就任を依頼することになる。そのときの吉田は総裁を引受けるに当って、「自分では党の資金はつくれない。しかし組閣の際の人事には干渉してもらいたくない。嫌気がさしたらやめるし、君が追放解除されれば、いつでもやめる」という条件を鳩山に示している。いよいよ吉田茂による独裁政治の始まりである。
ところで上記の写真は、タウンニュース社さんから提供していただいたもののなかの一つで、吉田茂邸が火事で焼失する以前のものである。写真の和室は書斎として使用されていたもので、中央には炬燵が置かれている。以前、この部屋には首相官邸への直通電話も置かれていた。後方の棚の上には笑顔の吉田茂の遺影が飾られている。また右側から光が差し込んでいるが、ここから富士山が一望できて外の眺めも素晴らしかった、と言われている。後述するが、吉田茂は戦後の最高の政治家であるという評価もあることから、その邸宅や貴重な遺産を火事で失ったことは誠に残念なことである。
長野県松代市の旧松代藩文武学校は、藩士の子弟に文武の道を奨励するために1853年真田幸村によって造営されたが、現在でも建物は変わらず残っている。またその隣に小学校があって、児童の教育のためにも役立てられている。その点吉田茂も戦後の政治家としては卓越しており、また伊藤博文公が賢者を祭ったことから始まった賢堂(七賢堂)にも吉田茂は祭られている。「吉田学校」といわれ吉田が政治家の育成にも尽力したことを考えると、吉田茂邸については格段の配慮がなされるべきであると思う。
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