日本国憲法の制定過程から学ぶ 短命の社会党政権と民政局 〈寄稿〉文/小川光夫 No.103
片山哲内閣は、政権党としての経験不足と戦後経済の混乱や社会党内部における対立から危機的状況にあった。自信の見えない片山内閣は、「クズ哲」と呼ばれるようにGHQの言いなりであった、と言える。経済力集中排除法の制定や警察制度の改革など、片山内閣の業績は、GHQの要求に沿って実現したものであり、自ら考え為し得たものでは決してなかった。こうした中での社会党左派の造反は片山内閣に決定的なダメージを与えることになる。1948年1月21日、第二次通常国会での最大の懸案は第三次補正予算での鉄道運賃・通信料金の値上げと官吏への生活補給金の支給であった。ところが社会党左派の予算委員長鈴木茂三郎や黒田寿男(ひさお)はそれに反対した。ホイットニー民政局長は片山内閣の総辞職を危惧したが、鈴木茂三郎などの謀略によって予算委員会での法案は否決されてしまった。このことにより社会党は分裂の危機にさらされ、2月10日、片山内閣は総辞職を余儀なくされた。ホイットニーやケーディスなどニューディーラーと呼ばれる民政局(GS)の人達は、参謀本部第二部(G2)のウイロビーと接触のもつ自由党の吉田茂だけには政権をとらせたくないことから、民主党、国協党との連立内閣を続けることを強く社会党に望んだ。しかし世論は、内閣が総辞職をしたのであるから、野党第一党の自由党が政権を担うことが「憲政の常道」であるとし、マスコミもそれに同調していた。しかも民主党の主流派は芦田首班を打ち出したが、社会党の左派と中間派は「第二次片山内閣とするならともかく、それでなければ野党たるべきである」とし、また民主党保守派の齋藤隆夫などもそれに同調するなど政権争いは混迷を呈していた。それに対して西尾からの社会党左派への説得工作が行われ、片山自身も中央執行委員会で首班選挙に出馬しないことを表明したことにより、ようやく社会・民主・国協党連立による芦田首班で全体の意見が纏まることになった。
1948年(昭和23年)2月21日、衆議院の指名投票では芦田均が216票、吉田茂が180票、片山哲8票、徳田球一3票で芦田が首班に選ばれる。しかし、参議院では吉田茂が180票、芦田均102票となったため両院協議会がもたれたが、話し合いがつかないまま第一院である衆議院の指名が優先されて芦田が首班となった。こうして3月10日になって認証式が行われ芦田均首相、西尾末広副総理など15名の閣僚が誕生することになる。芦田はこの内閣を中道内閣と呼んだが、実際はケーディスなどGSが自由党の吉田茂を嫌っていたことを十分に配慮した組閣であったといえる。
〈このシリーズは110回で終了となります〉
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