明治150年記念連載 大磯歴史語り 第2回「伊藤博文【2】」文・武井久江
伊藤は、16歳(18歳説も有り)から松下村塾に学び始めました。貧しい出ということから彼はいつも蔑まれる言葉を浴びながらの青春でしたが、とても謙虚で人の話をよく聞く人でした。そのことから、吉田松陰は出会って間もない彼を見て、こんな風に表現しています。「才劣り 学幼し しかし性質は素直で 華美になびかず 僕はすこぶる愛す」さらに「政治の才有り」と。当時「松下村塾・四天王」の1人で京にいた久坂玄瑞にあてた手紙です。10代の彼を見て、政治の才有りと見抜いた松陰はやはりすごい人でした。
伊藤に多大な影響を与えた松陰は、これから起こる明治維新に向かい多くの人々の生き方に光と影を落としました。木戸孝允・高杉晋作・山縣有朋・山田顕義・品川弥二郎・久坂玄瑞・吉田稔麿・入江九一・前原一誠等々。松陰が彼らと関わったのは、そう長くない期間でしたが。
この頃、伊藤は利助と名乗っていましたが、この名前を山縣有朋によくいじられていました。「お前は自分の利益ばかりを追い求め、姑息にも松陰先生に取り入ってると名前が物語っている」と言われ、伊藤は親からもらった名前をそこまで言われる筋合いは無いと、山縣と初めて口論になりました。その直後、松陰から俊輔と改名するように言われました。博文と改名していくのは明治維新以降です。また山縣有朋は当時、小助でしたが松下村塾に学びだして狂介と改名しています。この2人は明治維新以降の西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通亡き後、伊藤・山縣・井上の時代がやってきますが、その前に維新目前の1863年5月に長州藩の命を受け、ヨーロッパの視察に行きます。これが後に「長州ファイブ」と呼ばれ、今もロンドン大学の中庭に彼らを称える顕彰碑が残っています。この経験から世界とのレベルの差を感じ、攘夷派から開国派に変わっていきます。そして初代総理大臣になるきっかけの英語を勉強していきます。
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