明治150年記念連載 大磯歴史語り 第7回「山縣有朋【2】」文・武井久江
山縣は、幕末に長州藩の奇兵隊軍監に任じられました。それ以来、山縣は軍隊と共に歩んでいきます。明治の元勲(元老)ではもっとも長命だった一人で、彼が表舞台に立てたのも、幕末、師の吉田松陰を始めとして多くの志士が若くして亡くなったことも一因だと思います。明治になってからも、尊敬していた西郷隆盛が西南戦争で自刃。結果的に山縣は陸軍閥のリーダーとなり、陸軍を充実させ明治政府の地盤を確固たるものにして、やがて山縣は政治の舞台に躍り出ます。激動する明治の世は、山縣を一武官にとどめてはおきませんでした。現役軍人(陸軍中将)のまま、総理大臣に就任したただ1人の人でした。
第3代総理大臣になったのは明治22年、大磯にいらしたのは明治20年、当時大正天皇のご典医だった第5代軍医総監・橋本綱常は伊藤や山縣の掛かりつけの医師で、山縣は持病の関節炎が有り、その養生に大磯の地を勧められ、別荘を構えました。武人である彼の歴史は凄いものが有りますが、普請道楽でも有名です。明治3年に、故郷・長州に最初の無鄰菴(隣家のない静かな場所という意)を建て、この地を離れるときに高杉晋作の菩提をとむらう梅処尼にこの庵を譲り、東行庵(後方の住居部分は無鄰菴の名残)としました。この後、戊辰戦争の功を認められ、年金750円(現在の約2千万円ぐらい)で、明治10年に東京・小石川目白台の本邸・椿山荘を購入・造営、作庭は岩本勝五郎です。明治19年に那須に広大な第3種官有地の払い下げを受け、移住農家を招致して開墾を勧めた地です。後に、大正12年に関東大震災で倒壊した小田原の古稀庵を移築し、栃木県指定・有形文化財「山縣有朋記念館」があります。明治20年、大磯別邸・小淘庵(おゆるぎあん)は、後に伊藤・西園寺・大隈ら有力政治家の別荘が隣接し、政治的交流の場としても機能しました。山縣は、白砂青松のこの地を古稀を迎える明治40年までこよなく愛しました。(敬称略)
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