明治150年記念連載 大磯歴史語り 第8回「山縣有朋【3】」文・武井久江
山縣の普請道楽は、まだまだ続きました。大磯の別邸で過ごしている間も、京都で明治24年に第2無鄰菴、明治29年に第3無鄰菴を建てました。この洋館の2階が日露開戦直前に行われた「無鄰菴会議」の舞台になったところです。作庭は7代目小川治兵衛です。
山縣が明治40年に古稀の折に造営し、終の棲家になった「古稀庵」。洋館はジョサイア・コンドル設計で、和館は伊東忠太設計です。山縣亡き後、関東大震災後に倒壊し、養嗣子の伊三郎により栃木県矢板市に移築され、山縣有朋記念館として公開されてます。小田原のお庭は現在企業所有ですので、日曜のみ公開です。
ここから本来の山縣の仕事ぶりをご紹介します。奇兵隊軍監に任じられたのち、明治元年(1868)奇兵隊を率いて東上、戊辰戦争に従軍。明治6年1月徴兵令発布、6月に初代の陸軍卿に就任。明治10年2月、西南戦争に際し征討参軍。明治18年内閣制度発足、伊藤内閣の内務大臣。明治22年12月、第3代内閣総理大臣・内務大臣兼務。翌23年7月1日、初めての衆議院議員総選挙が行われ、この時最多の得票数を獲得したのは佐賀県の松田正久・4548票、一方では23票の得票で当選した人もいたとか? 10月教育勅語発布、11月29日第1回帝国議会開会。明治27年8月日清戦争勃発、第1軍司令官として朝鮮出征。明治31年(1898)11月第2次山縣内閣発足。明治33年治安警察法制定。明治37年日露戦争勃発、66歳になり参謀総長になりました。明治42年、伊藤公暗殺、3度目の枢密院議長就任。大正10年(1921)宮中某重大事件で謹慎を余儀なくされる。翌年2月1日、残念なことに息を引き取られました。享年83歳でした。彼は死ぬまで元老の中の元老でした。元老という役職は憲法には規定されていませんが、明治時代から昭和初期まで総理の選任に関わり、重要な政治的判断をくだす際にも強い影響力を持っていました。長生きした山縣は、最晩年まで政界に君臨し続けました。(敬称略)
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