明治150年記念連載 大磯歴史語り 第10回「大隈重信【2】」文・武井久江
前回に続き大隈重信です。「明治14年の政変」は大隈が国会早期開設や政党内閣制を主張し、この急進的意見に漸進主義を取る伊藤らが反発して御前会議で大隈を罷免するという挙に出たのです。
政界からの退場を余儀なくされた大隈は最大の試練でした。だが、在野中の明治15年3月国会開設に備えてイギリス流の「立憲改進党」を結成。初代党首となり、10月には東京専門学校(後の早稲田大学)を設立しました。この学校は、当初は立憲改進党系の学校と思われ政府から様々な妨害を受けますが、「学問の独立」を掲げ自由主義精神に富む人間の育成をめざし、東京専門学校は創設されました。大隈らの懸命な努力で、多くの優れた人材を輩出する名門校へと成長します。その後、明治21年(1888)伊藤からの要請で不平等条約を改正するために外務大臣となります。かつて対立していた伊藤は、大隈の政治家としての才能は高く評価していました。大隈はこれまでの一括交渉方式をやめ、各国と個別の交渉に臨み、メキシコ・アメリカ・ドイツ・ロシアと大幅に改善された新条約を締結していきました。ところが、外国人判事の登用の件で、明治22年10月18日政治団体玄洋社の来島恒喜による爆弾テロで右脚を失う重傷を負い外相を辞任、条約改正事業は中止となりました。この時に実は右足首を爆破されたのですが、妻綾子の決断で腿から切断することを決めます。これが後に大隈の命を救うことになります。その応急処置をしたのが、大磯に別荘を持っていた「ビタミンの父」高木兼寛でした。もちろんその後に右脚切断手術をしたのは大隈夫妻の主治医であるドイツ医師エルヴィン・フォン・ベルツでした。
明治31年薩長藩閥以外の内閣総理大臣、第8代で日本初の政党内閣を組閣しました。その前年に、今回公開されております大磯の別荘を構えます。次回は公開のお話しもします。(敬称略)
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