明治150年記念連載 大磯歴史語り 第11回「大隈重信【3】」文・武井久江
大隈が大磯に別邸を構えたのは明治30年。翌年に第8代総理大臣になりました。7代までは薩長出身者で受け継がれていた総理大臣。大隈は維新の前年、藩主・鍋島直正に倒幕に立ち上がるように懸命に説きましたが聞き入れられず、歴史の大きな変わり目に佐賀藩は遅れを取ってしまったのです。
前回は爆弾事件のお話をしましたが、今回は大磯の大隈邸公開に伴うお話です。伯はお風呂好きというお話があります。伯が右脚を切断した当時の日本は義足を作る技術が未熟だったため、初期治療で関わった高木兼寛の紹介でアメリカA・Aマークス社の義足が手配されました。この事でわが国は義足の発達と普及に努め、伯は義足のために生活様式を洋式化し、入浴で運動をすることを日課としました。入浴は血液を満遍なく全身に流通させるためであり、伯の健康は入浴に負うところが大きかったのです。大隈邸の前庭に五右衛門風呂があります。何故こんなところにという疑問を解きたい人は、ぜひガイドツアーに参加してご観覧ください。時々、神経痛が起こらないように保温をして(大磯の別邸には足を温めるためのストーブが置いてあった)、精神の健康には長生法五ヵ条(怒るな・愚痴をこぼすな・過去を顧みるな・望を将来におけ・人の為に善を成せ)を守りました。夏季は義足の当たる断端部が擦り剝けてその痛みで度々発熱することがありましたが、痛みを誰にも伝えず(奥様の綾子様は理解していましたので、一時もお側を離れませんでした)、時には一睡もせず応急処置をして痛みに堪え、客と接し放談高論(多い時は1年間に約2万人の人が訪問した)し、閣議に出席しました。闘病日誌からは、看病についてくる夫人の老体を心配し、看護婦には夜分にはなるべく別室に退いて休息するように告げ、またどんなに苦しくても声を荒げて看護婦を叱ったことが無かったことが読み取れます。それでいて「大義の為に身を投げ出す」「剛毅な決断力」の人でした。ぜひ大隈邸を見に御来磯ください。(敬称略)
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