明治150年記念連載 大磯歴史語り 第13回「大隈重信【5】」文・武井久江
先週、佐賀県の大隈重信記念館と生家に行って来ました。それを活かして彼の総括をします。
大隈重信は、明治政府において二度の内閣総理大臣を務めるとともに、貨幣制度や郵便制度など、現代社会に繋がる数々の功績を残しています。また、彼は「日本の将来は人材にあり」と早稲田大学を創設します。新しい時代を支える富んだ豊かな人材の育成に努めました。
少年時代より勉学に優れており、益々その才能に磨きをかけ、幕末から明治にかけての動乱期に日本の近代化を一気に推し進めました。それには母の影響が大でした。6歳の時に母・三井子は生家の2階部分に勉強部屋を増築します。部屋には平屋だった時の屋根の梁を一部残しその梁の前で勉強させ、睡魔に襲われると自然に出っ張った梁に頭がぶつかり目が覚めるようにしました。その柱を「ごっつん柱」と言います。そんな母からの教えを政治の中にも生かしたことが生家で説明されていました。( )の中の部分です。【1】喧嘩をしてはいけません。(不平等条約の改正の交渉を話し合いで解決した)、【2】人をいじめてはいけません。(腹が立つことがあったら風呂に入る、それでもダメな時は酒を飲む、まだ駄目な時は眠る)、【3】いつも先を見て進みなさい。(政府の中ではまだ早いということで反対が多い中、世界と早く肩を並べるために、日本に鉄道を引くことに努力した)、【4】過ぎたことを、くよくよ振り返ってはいけません。(1889年10月18日、政治の進め方に腹を立てた人に爆弾で襲われた事を「このぐらいの事で腹を立てない。足が失くなった分、脳に血液が多くまわる」と豪語した)、【5】人が困っていたら助けなさい。(南極探検家の白瀬矗はお金がなく、その支援の為に後援会長になり助けた)。
そんな人情味あふれる人柄に触れ、本当に強い方は根っから優しいんだと感じました。記念館には義足が展示されていたり、記念館の前に彼の等身大の銅像がありますが、本物は早稲田大隈講堂の回廊にあります。次回は西園寺公望です。(敬称略)
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