明治150年記念連載 大磯歴史語り 第14回「西園寺公望【1】」文・武井久江
シリーズ第4弾は西園寺公望です。残念なことに今回の大磯邸園の公開には間に合いませんでしたが、滄浪閣の隣に明治32年に別荘(隣荘)を構え伊藤と政談を密にしたそうです。伊藤がハルピンで亡くなられた明治42年には、悲しみのあまり転居したいと思ったとか? でも、伊藤の偉功を継続する形で、大正6年まで住まわれていました。なので今残っている建物が旧西園寺邸と思っている方が多いのですが、現在の建物は、旧池田成彬邸です。
では、生い立ちからお話していきますが、今まで総理大臣になられた方達とは少し違います。
彼は公家の出身で、嘉永2年(1849)京都・清華家の一つの徳大寺公純(きんいと)の次男として生まれ、4歳で同族(徳大寺・三篠・西園寺家の系譜からなります)である清華家の西園寺師希(もろすえ)の養子となります。公家としては近衛・九条などの五摂家に次ぐ清華家で、三条実美も清華家の出身です。岩倉具視は、公家最下層の諸家の出身になります。今まで語りました総理大臣の伊藤や山縣は出自が低いと、何度もお話しましたが、公家の出身もこれまた大変な感じがしてきました。
5歳で侍従となり、孝明、明治、大正、昭和の四代の天皇にお仕えし信任がとても厚かった。少年時代、西園寺は公家の儀式的な生活を嫌う血気盛んな若者でした。幕末の長州藩と会津藩・薩摩藩が武力衝突した禁門の変は、西園寺家の門前が戦場となり、西園寺は裏の土塀を蹴破って宮中に行ったといいます。戊辰戦争が一段落した明治元年(1868)10月に19歳にして新潟府知事に任命されました。ときに、新潟は地方長官としては有力なポストでしたが、この頃から西欧への興味が芽生え、遊学したいと考えていました。明治4年2月にパリへ渡り、約9年半のフランス留学の経験を経て、パリ大学では法学士の資格を取得し勉学に励みました。(敬称略)
|
|
|
|
|
|