新紙幣の肖像画に選ばれた渋沢栄一と津田梅子、北里柴三郎。近代日本経済の礎を築いた実業家の渋沢は、大磯町とゆかりがあり、徳富蘇峰記念館=二宮町=には渋沢と北里の手紙が保管されている。
経済界で多くの功績を残した渋沢は、教育や社会事業、民間外交などの分野でも貢献。「渋沢栄一伝記資料」には、1880(明治13)年、旧友が庵主を務める大磯の旧跡「鴫立庵」の再建に尽力したことが記されている。初代軍医総監・松本順が開設した大磯海水浴場の発展にも手を貸し、海水浴客の診療・宿泊施設「禱龍館」の館員となり、その設立資金を提供した。
伊藤博文をはじめとする政財界の要人たちが別荘を構えた大磯に、渋沢も家族を伴い幾度も滞在したといわれる。
徳富蘇峰記念館では、明治・大正・昭和の言論人として活躍した蘇峰へ送られた渋沢の手紙14通を所蔵する。明治21年8月24日付の手紙は、蘇峰の師・新島襄が設立を目指した同志社大学に関するもので、「大隈邸で同志社通則草案を拝見したときに、この他に二種類の規則があったように覚えている。それを送付してほしい」と依頼する内容。渋沢は大隈重信邸で新島を支援する会合に出席し、当時の金額としては破格の6千円を寄付していた。
1931(昭和6)年に渋沢が死去した際、蘇峰は長文の追悼コラムを新聞に掲載。渋沢の偉大な足跡だけでなく、優れた人格者であったことも伝えた。同館学芸員の塩崎信彦さんは「蘇峰は、幕臣として一橋慶喜(徳川家15代将軍)に仕えた渋沢への思い入れがよほど強かったのでしょう」と話す。
蘇峰と同郷の熊本県出身の北里の手紙は3通あり、そのうちの一つには「約束した原稿は少々都合があり、明日午後二時までにお渡しするので、明後日に(新聞に)掲載をお願いしたい」と書いている。
五千円札の顔になる津田梅子は、日本人女性最初の留学生のひとり。現在の津田塾大学を創立し、女子高等教育に力を注いだ。三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の孫に生まれ、混血孤児を救済するためにエリザベス・サンダース・ホーム=大磯町=を設立した澤田美喜は、岩崎家の家庭教師だった津田から英語を学んだといわれる。
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