明治150年記念連載 大磯歴史語り 第27回「原敬【2】」文・武井久江
原は、旧藩主の南部利恭(としゆき)が設立した「共慣義塾」へ入学するために15歳で東京に出ます。勉学に励んでいる時に、実家に泥棒が入り母親からの送金が途絶え、やむなく退学します。生活を続けるために、原は学僕(住み込みで働く学生の事)の口を見つけ何とか生活を続けました。そして、明治5年(1872)東京麹町にあったマリン神学校に入学します。でも、キリスト教への信仰というよりは、学費や食費が無料だったことが入学の理由でした。マリン神学校で1年半学び、この間に洗礼も受け「ダビデ・ハラ」になり、明治7年(1874)フランス人宣教師・エブラルの学僕として、約1年新潟に滞在します。後に外交官になるときに役にたった、フランス語も学びました。翌年の明治8年、維新の時に政府に没収された原家の私有地が返還されることになり、学費のめどがついたことから、東京での受験を決心します。これを機に原は実家から分家することにしました。当時は、士族の子でも家督を継がない場合は平民となるため、この時から生涯原は「平民」を貫くことになります。
そして、近代政治史のバイブルと言われた「原敬日記」がこの年、明治8年4月14日から亡くなる大正10年(1921)11月4日(実際は10月の末までで、4日まではメモ書きで残っています)までの46年間書き溜められました。「和綴罫紙帖」83冊に及ぶ「原敬日記」は、没後29年間は公開ならずの遺言を守り、現在は原敬記念館に木箱に入れられ展示されています。コピーは、その場で見ることができます。この日記は、後に吉田茂が、「総理大臣必読の書」と述べています。原は、この日記を携え苦学した後に、司法省法学校(現・東京大学法学部)を受験します。結果、合格者104名中、2番の成績で入学します。順調にみえた学生生活でしたが、思わぬことで原は退学となります。明治12年(1879)寄宿舎での「賄征伐」に関与して、2年半で中退することになり、後に中江兆民塾に学びます。では、次回。(敬称略)
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