明治150年記念連載 大磯歴史語り 第28回「原敬【3】」文・武井久江
前回で、賄征伐事件(寮の食事で学校と対立)のため、2年半で放校処分になりました。この時の裏話があります。司法卿(現・法務大臣)の大木喬任(佐賀七賢人の1人〜「都を京都から江戸に移して、名前を東京に」と言って、後に東京府知事になった人です。)への直訴に恨みを持った法学校校長(薩長出身者)が、原たち16名を放校処分にしました。その時の学生に、新聞日本の編集長でジャーナリストの陸羯南(くがかつなん)、漢詩人の国分青崖(こくぶせいがい)等がいました。当時の学生は、布を腰に巻いた薩摩風の兵児帯姿と黒足袋が一般的でしたが、原は薩摩への反発から角帯と白足袋で通していました。そんな事も、校長の恨みをかい放校になりました。
多感な頃の逸話はいっぱいありますが、そろそろ時代を進めます。そしてその年に中江兆民塾に学び、7月に「露西亜国勢論」を翻訳出版、11月には郵便報知新聞社に入社し、フランス語の翻訳の仕事と共に社説も書いていました。この新聞社を「明治14年の政変」で下野していた大隈重信らが買収、犬養毅・尾崎行雄などが入ったことから、原は大隈の急進的な考え方に反対でしたので、2年余りで辞表を出し、次へと行動を起こします。明治15年(1882)原は、官僚の井上毅を通じて外務卿の井上馨を紹介され、その口利きで短期間ですが政府系新聞大阪の「大東日報」に勤務し、11月に外務省に入省、翌年・太政官御用掛・外務省御用掛兼務。この年の12月に清国天津の領事として赴任することになり、領事が独身ではまずいということから、急遽結婚へと。半ば政略結婚の感あり、相手は維新の志士・中井弘(ひろむ)と武子の長女・貞子(後に井上馨の養女)14歳、原27歳、仲人は伊藤博文の四天王・渡辺洪庵、12月3日に結婚、4日には天津に赴任、約1年半勤務し、パリの公使官に3年赴任し、外交官としての経験を積み国際情勢に通じた官僚へと成長していきました。写真は、この間の事情が書かれている日記が29年間収められていた蔵です。(敬称略)
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