明治150年記念連載 大磯歴史語り 第29回「原敬【4】」文・武井久江
前回のお話で、原は国際情勢に通じた官僚へと成長していきますが、更なる人脈が付きます。結婚した妻の両親が離別し、初代の外務大臣を務めた井上馨と母が再婚・義父となります。
明治18年(1885)李鴻章と交友、天津条約締結に尽力して伊藤博文に認められます。5月、外務書記官としてパリ公使官勤務を命ぜられ、勲六等に叙せられ旭日章を受けました。そして国際公法を学び、明治22年(1889)帰国して、農商務大臣の井上馨の引きで農商務省に転じ、井上農商務相のもとで、農商務省参事官となり、後、岩村道俊に次いで、陸奥宗光農商務相の秘書官になります。原が、生涯の師と仰いだ「カミソリ大臣」陸奥との出会いです。
切れ者の陸奥は、原に厚い信任をおき、原も陸奥の期待に応えて働きました。この時に、陸奥(藩閥に属さない紀州藩出身)は原にこんな話をしました。「政府における薩長閥の勢力は、誰をもってしても外からは容易に倒すことはできない。ならば藩閥政府内に入ってその組織に食いこみ、彼らに利用されているように装いつつ、逆に操縦・駆使して、自分の主義・理想を実行しよう」。この考えに共鳴し、陸奥が亡くなるまで彼と行動を共にしました。
明治25年(1892)から陸奥外相のもとで条約改正作業に従事し3年後には外務次官となります。だが、第2次伊藤内閣のあと、第2次松方正義内閣の外相に大隈が就任すると待命(命令待ち)となり、明治30年病いに伏していた陸奥が死去したあと、外務省を辞して官界を去りました。そして、ジャーナリズム世界に戻ります。この年、3年間の契約で大阪毎日新聞に入社し、翌年社長に就任、原が行った紙面改革(海外ニュース・芸能欄の充実)で部数を伸ばします。この官僚経験が豊かで、経営の才覚もある原に目を付けた政治家がいました。自らの政党立憲政友会設立の準備をしていた伊藤博文でした。(敬称略)
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