明治150年記念連載 大磯歴史語り 第30回「原敬【5】」文・武井久江
今回は大磯での関わりをご案内します。明治25年(1892)9月、原は病気の妻・貞子を転地療養させるため、大磯町の禱龍館を訪れました。ここは、明治20年に松本順(軍医総監を退官した後)が日本初の海水浴場を開設され、旅館と病院を兼ねた旅館として富裕層がよく利用していました。会員制で、渋沢栄一・安田善次郎・榎本武揚などがメンバーでした。妻・貞子は約2週間滞在、翌年の8月にも3週間滞在し、その時に南下町に住む小島初五郎と縁ができ、小島家の敷地内に別荘を建てることを勧められます。1894〜95年の日清戦争中、外務省の職務は多忙を極め、原は避暑・避寒の為に東京を離れて静養するゆとりはありませんでした。
この間、戦争指導の激務により、陸奥宗光外相は持病の肺病を悪化させ、1895年6月から大磯で静養生活に入っていました。陸奥は、既に前年12月に大磯に別荘地を取得、日清戦争を振り返った回顧録「蹇蹇録」を執筆したり、伊藤首相や自由党関係者と面会、「聴漁荘」と命名された簡素な和館で療養中心の生活を送っていて、原は何度も陸奥を見舞いました。その為にも大磯に別荘をもった意味があったのでしょう。しかし、病は好転せず明治29年(1896)5月30日に外相を辞任し、原はその3日後に大磯の別荘契約を結び、その1ヶ月前に、大磯の伊藤の本邸・「滄浪閣」が落成し、明治32年に伊藤の勧めにより西園寺公望が「隣荘」を大磯に建てました。伊藤・西園寺と大磯で接触する機会が次第に増えていきます。
原は、同年9月に創立された政友会に入党して、総務委員兼幹事長に就任し、政友会が与党となったときの役職在任中も、大磯で伊藤・西園寺と良く面会したことが「原日記」に書かれています。明治34年(1901)に5回、1902年に10回、1903年に10回、この時期に、大磯は原が伊藤・西園寺と静かに面談し、政友会の前途について語り合う場所になっていました。もっとも陸奥の死後、原は大磯の別荘をそれほど活用しなくなりました。では次回。(敬称略)
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