明治150年記念連載 大磯歴史語り 第37回「吉田茂【4】」文・武井久江
内閣総理大臣に上り詰めるまでの吉田茂は、成功と挫折の繰り返しでした。莫大な遺産があるから自由気ままに学業を続けられた側面と、みずからの将来を決めかねて苦悩する青年の姿を前回で垣間見ることが出来たと思います。28歳で東京帝大を卒業、外交官試験に受かりましたが、相当遅いスタートでした。外交官として第一歩を踏み出した茂は、外務省へ白馬に乗って通勤していたエピソードがあります。四谷尾張町に学習院があった時も、実は馬で通っていました。馬と一緒にいることは、茂にとって心が和むかけがえのない時間でした。馬一頭を飼うことは、人間一人を雇う以上にお金がかかりました。現代風に例えると、新入社員がロールスロイスに乗って通勤する風景を思い浮かべて下さい。そして、先輩たちから生意気な奴だと評判が立ったのも当然でした。
明治39年(1906)の外務省入省後、最初の任地は天津でしたが、すぐに奉天に変更されました。当時設立されたばかりの重要拠点でした。総領事は萩原守一(旧姓石川)で、後の茂の大きな支えになった方です。元老山縣有朋に見込まれ、山縣が幕末に使っていた変名の萩原をもらった方です。萩原は、豪胆さと繊細さを兼ね備えた外務省のエースでした。赴任を前に実父(竹内綱)が訪れ、門出の引き出物として持参してきたのが家宝の刀でした。実父は代議士の経験もありますが、代議士を引退し政治の舞台裏で活躍した方で、養父亡き後陰で支えていた綱は「官僚になれば賄賂とか様々な誘いがあるが、その誘惑をこの刀で断ち切れ」という思いで、この刀を贈ったと言われています。奉天では、日露戦争勝利の後でしたので軍人の勢いが強い中、萩原総領事が外務省代表として一歩も引かない外交官マインドを、茂はしっかりと学んでいきました。また、萩原も茂の素質を見抜き信頼し、初の海外勤務を経験して茂も人間的に成長しました。次回は結婚・欧州勤務です。(敬称略)
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