明治150年記念連載 〈財閥編〉 大磯歴史語り 第1回「岩崎弥之助」 文・武井久江
「大磯歴史語り」再開です。今回から財閥編をご紹介します。
財閥という言葉が消えてから(戦後の財閥解体から)久しいですが、お若い方たちは分かりますか? まずは語源からいきましょう。何人かの著名な教授の方たち・作家の方々も「これこれが財閥だ」と明言することが難しいと言われています。何故かというと、「財閥」という言葉は、元々はジャーナリズムで使われてきた言葉で、厳密に定義された学術用語ではなかったからです。「財閥」という言葉が初めて使われたのは、明治時代中期に活躍した「甲州財閥」だと言われています。当時使われていた「財閥」は、現在の使われ方とは少し違っていました。明治期に甲州(甲斐・現山梨県)出身の事業家たちが結託、経済界を席巻した事をさしましたが、時代の流れと共に「財閥」という言葉は、次第に「三井財閥」「三菱財閥」のような、同一家族が経営する巨大企業の連合体に限定して使われるようになりました。そうです、財閥のキーワードは「家族」です。平たく言うと、「大金持ちの家族が、日本を代表するような大企業を幾つも経営している」ということです。今回財閥全てを語る事はできませんが、財閥の中から現代企業まで系譜の繋がっている15の財閥の中から、大磯に別荘を構えた財閥をご紹介します。半数以上が大磯に別荘を構えていましたので、尽きることなく語れると思います。8人の宰相もそうでしたが、大磯というのは幕末から明治維新を経て、現在の政治・経済を支える土台を作った人たちが暮らした町なのです。
では、第1回は4大財閥(三井・三菱・住友・安田)の中から「三菱財閥」岩崎弥之助・久弥を語ります。回を重ねていく中で、さらに財閥のご案内をしていきます。明治22年〜23年頃に大磯に別荘を構えたのは、吉田茂の養父・吉田健三、現安田不動産・大磯寮の地に浅野総一郎、そして今回からお話をします「三菱財閥」2代目の岩崎弥之助が大磯の駅前から駅裏・坂田山周辺を含め、約3万2千坪を所有していました。現在はエリザベス・サンダースホーム・ステパノ学園・澤田美喜記念館を含め、約1万6千坪でしょうか、さらに当時の建物がひと間だけ残っています(現在は見学はできません)。大磯の別邸は、2代目の弥之助が母・美和のための養生所として購入しました。ただ、初代弥太郎を語らずして三菱財閥は語れませんので、次回岩崎弥太郎からお話します。(敬称略)
|
|
|
|
|
|