大磯歴史語り 〈財閥編〉
前回、三菱村の基礎になる土地を購入したお話をしましたが、実はその頃大磯の駅前にも約3万2000坪の土地を購入しています。駅前だけでなく、駅裏の湘南平へ向かう坂田山や、茶屋町・台町等です。丸の内よりもっと藪だったと思いますが、弥之助は先見の明があったのですね。その後、三菱は政府の御雇外国人を辞めたジョサイヤ・コンドル(またいつか語れると良いのですが彼も大磯に住んでいました)と近づきます。彼が設計した鹿鳴館は鹿鳴館外交として、政府が欧米諸国との間の不平等条約を改正する狙いで作られましたが失敗。鹿鳴館は閉館し、この時の責めを受けて政府お抱えを辞めさせられました。そのコンドルを救ったのが弥之助です。コンドルの事を少しお話します。明治10年(1877)24歳でイギリスから来日、工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)の教師及び工部省営繕局顧問となりました。明治22年に竣工した弥之助の深川邸を設計、翌年に三菱社の顧問となり、丸の内の近代化を推進しました。さらに旧伊藤博文邸を購入し、明治41年に完成したのが高輪別邸(三菱開東閣)ですが、弥之助はその年に亡くなります。三菱1号館は明治27年(1894)、コンドルの設計で丸の内に建設された初の洋風事務所建築です。1号館を皮切りに明治末期にかけて馬場先通りに赤煉瓦街が建設されました。平成21年(2009)にコンドルの原・設計を元に、部材や建築技術など可能な限り忠実に復元。翌年美術館として開館しました。
弥之助は明治23年に貴族院議員、26年に三菱の総師を甥の久弥に譲り、29年に第4代日本銀行総裁になります。妻は後藤象二郎の長女・早苗。3男1女に恵まれます。長男小弥太は、後の4代目総師になります。弥之助は学問を好み、息子・小弥太と共に、明治初期から昭和前期にかけて収集した古典籍と美術品を有していて、明治の西洋文明偏重を憂い、東洋の文化財・古典籍の海外流出を防ぐために収集に力を注ぎ、自邸内に静嘉堂文庫を設けました。その収集の途中の明治41年(1908)3月25日、57歳の若さで亡くなりました。明治期の芸術家保護活動として、内国勧業博覧会への出品依頼や海外留学援助などを行い、芸術界に大きく寄与しました。
多摩川砧村に購入していた土地に、明治43年弥之助の3回忌にコンドル設計に依るルネサンス式石造納骨堂を建設しました。素晴らしい廟です。自邸内に在った静嘉堂文庫は、大正13年に多摩川砧村に新文庫を建設しました。弥之助の冥福を祈ります。(敬称略)
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