大磯歴史語り〈財閥編〉 第20回「住友財閥(住友寛一)」文・武井久江
住友家は古くは、元禄4年(1691)に別子銅山の開堀に着手し、事業の柱になっていました。別子銅山は、国内最大規模の産銅額を誇り、住友家の発展に大きく寄与しました。豊かな資金力を背景に江戸に店を構え、両替商を拡大。三井・鴻池家と並んで江戸時代に「三大豪福」と呼ばれていて、戦前は三井・三菱に続く財閥であり、戦後の財閥解体を経て、住友グループに再編されて銀行を中心に急成長を遂げました。財閥編は特に家系図を紐解くとびっくりする事が多いです。前回、住友寛一が財閥を継がず、その3代前に男系相続者が途絶えた悲運のお話をしましたが、この時の住友家総理人・広瀬宰平と大阪本店支配人・伊庭貞剛(広瀬宰平の甥)は、友親(12代目)の妻・登久に14代目吉左衛門を襲名させる一方、友忠(13代目)の妹・満寿の婿養子として清華家の徳大寺隆麿を迎え、住友家の命脈をつなぎました。この方が、15代目吉左衛門友純(寛一の父です)で、徳大寺実則、西園寺公望の実弟です。実は、この清華家の徳大寺家は江戸時代に東山天皇の皇胤が養子に入った縁があります。住友男爵家は、男系でたどれば近世の天皇の皇胤に入れ替わったことになります。15代友純は、12代友親の長女・満寿との間に4男1女(3男は早世)をもうけ、長男の寛一は廃嫡、次男の厚が16代目吉左衛門友成として住友家を継ぎました。友成は、元東宮職御用掛けの西園寺八郎(西園寺公望の女婿・この方も現・滄浪閣の隣の隣荘に住んでいました)の次女・春子と結婚。17代目は寛一の末の弟・元夫の長男に受け継がれました。
まだまだ、血縁・血族はあります。これから語る三井財閥・浅野財閥で詳しくお話します。財閥をこんな風に語る人がいます。「人の三井」「組織の三菱」と対比して、「結束の住友」と呼ばれ、意外にグループ企業同士の仲は悪いと言われますが、最後は一致結束する。まさに「血は水よりも濃い」集団が財閥なのです。寛一は明治29年(1896)5月23日生まれ、若くして絵画に傾倒、20代の頃に出会った岸田劉生とも交流を持っていて東洋の美に開眼します。京都に昭和35年(1960)財団法人・泉屋博古館(せんおくはくこかん)が設立され、中国書画のほとんどは寛一のコレクションです。平成14年に、別子銅山開坑300年記念事業として東京港区六本木の泉ガーデン内に分館が開館しました。昭和7年ごろから大磯に住まい、1956年に60歳で亡くなられました。(敬称略)
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