大磯歴史語り〈財閥編〉 第21回「三井財閥」文・武井久江
今回は、三井財閥です。大磯にはとてもご縁があります。そのご縁のある方をご紹介して随時語りながら、三井家の歴史をお話していきます。三井総領家(北家)十代目当主・三井八郎右衛門高棟、三井十一家(永坂家)八代目当主・三井守之助(高泰)、三井十一家(本村町家)初代当主・三井養之助(高明)、三井の大番頭・中上川彦次郎(福沢諭吉の甥)、池田成彬(妻は中上川彦次郎の長女)、この方々が大磯に別邸を構え、また終の棲家になられた方もいらっしゃいます。名前だけで言いますと、大磯駅前にありますエリザベス・サンダース・ホームの名は、三井十一家(室町家)十一代目当主・高精の長男・高国の乳母としてイギリスから日本に渡り約40年勤められた方の遺産を頂き、その方の名前を施設名にしました。
では、三井家の歴史をお話していきます。江戸時代から続く富商・三井家(屋号・越後屋)を前身に持ち、戦前は日本最大の財閥でした。戦後は、三井グループに再編されますが、再結集が上手くいかず、三菱グループや住友グループの後塵を拝することになってしまいました。四大財閥の三菱と安田は一代で築いた財閥ですが、前回の住友と三井は歴史が古く、三井家の先祖も近江の国(現・滋賀県)の武士で戦国時代に織田信長の近江侵攻をきっかけに、三井越後守高安は伊勢に逃れ、その子・高俊が伊勢松坂で質屋兼酒屋を開店したと言われています。三井の創業者・三井高利(1622年〜1694年)は高俊の四男に生まれ、1673年頃に京都と江戸に呉服店を出し、「越後屋八郎右衛門」の暖簾を掲げました(越後屋という屋号は、祖父・越後守に由来しています)。越後屋は「現金掛け値なし」(現金で定価販売)という商売手法で爆発的な人気を得て、呉服店で得た資金を元手に両替商を始め、江戸・京都・大坂間で為替業務を開始し、巨万の富を築きました。また、三井家には分家制度と「総有」(管理・処分権のない共有財産制度を「総有」制と呼びます)という大きな特徴があります。高利は子宝に恵まれ、死に臨んで総資産を長男以下に割り当てる分割相続を指示しました。しかし遺児たちは実際には資産を分割せず、可能な限り共同事業を続けていく誓約を交わしました。高利の子女は9軒の分家を立て、明治には十一家に増え、「三井十一家」と呼ばれるようになりました。三井家の財産は分家同士が共同で管理・運用し、原則として分割を認めない共有財産となりました。
次回は、大磯の三井家についてお話します。(敬称略)
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