大磯歴史語り〈財閥編〉 第48回「安田善次郎【16】」文・武井久江
旧安田別荘(現・安田不動産大磯寮)は、北の端にありました。浅野総一郎邸を譲り受けたものです。明治末期から大正初期の事です。安田善次郎は、前所有者の浅野総一郎が経営する浅野財閥の諸事業へ融資していて、こうした事から浅野が大磯の地を安田へ紹介したものと思われ、この地を安田氏へ譲り渡し、自らは高麗560番地外の地へと別荘を移しています。この時に譲り受けた別荘は大正4年9月に焼失してしまったことから、善次郎は新たに大正6年に別荘を建てています。これが現在の安田不動産大磯寮の基本になっています。この頃には現在地の他に、堀之内・王城山・簾田にも土地を求めて、合計1万300坪を所有しました。
これまで、幸福の女神はずっと善次郎に微笑んできましたが、人生の最後に過酷な運命が訪れることになります。大正10年(1921)9月28日、大磯の寿楽庵に弁護士・風間力衛(本名・朝日平吾)と名乗る若い男が訪ねてきました。彼こそが、安田善次郎・暗殺の犯人です。
大磯のかの地の山・湘南平(高麗山公園)は、江戸時代から千畳敷といって親しまれていました。安田善次郎が王城山の一帯を小千畳敷と名付けて、町民のための行楽地「寿楽園」にする計画が始まっていて、王城山南麓の山道には諸神、諸仏の像が配置され、王城山登山口には寿楽園碑が置かれていました。碑にはこんな言葉が残されています。「おかまえは申さず 来たりたまえかし 日がな遊ぶも 客のまにまに」。この公園は自由に出入りが出来たのも、善次郎が社会教育に心を注いでいたからです。
善次郎は凶行が行われる3日前に、この小千畳敷を日本風なテーマパークとして飾る石仏や百観音を探しに、中野の百観音明治村、その後に川越大師・喜多院の五百羅漢を見て廻りました。石工任せにせずに自分に得心がいくまで作りたかったのです。完成ならずに亡くなってしまいましたが、現在も何点かの石仏や随所に大黒天を初め七福神を安置して、その教えを晩年まで守り通して社会浄化に努めていましたので、単なる偶像崇拝ではなく石仏が残っています。志半ばで善次郎が亡くなったことから残念ですが実は、もし完成していたら世界初のテーマパークになっていたかもしれません。何故なら、諸説ありますが世界初のテーマパークは1920年代にアメリカNYコニーアイランドに出来た遊園地とされており、その前(1918年)に着手していたことになります。勿論、規模も内容も違いますが、最後まで先見の明があった方だったのですね。次回、終焉へ。(敬称略)
|
|
|
|
|
|