大磯歴史語り〈財閥編〉 第63回「浅野総一郎【13】」文・武井久江
コークスの山は、やはり宝の山になりました。石炭販売に手をそめたのが明治6年頃。当時は瓦斯局の産業廃棄物に過ぎなかったコールタールとコークスを買い込み、コークスの燃料化を考え、これを深川の官営セメント工場に売り込みました。これが大成功。当時渋沢栄一の監督下にあった王子製紙からも引き合いが有り、総一郎が人夫達と真っ黒になって働く彼を見て、感心した渋沢は「この男はただ者ではない!」と、直感したといいます。
ところが、西南の役で横浜・東京の石炭が途絶すると、総一郎は三日三晩不眠不休で九州へ飛び、無事長崎に到着しました。全国各地の石炭商が集まり、激しい競争になりました。最終的には神戸の石炭商と一騎打ちになりました。外国人居留地をかかえた「横浜」「神戸」の戦いになり、遂に総一郎が落札しました。これ以来、「横浜を石炭危機から救った男」として総一郎は一躍有名人になりました。横浜ですぐさま石炭を売り切り、この取引で約4万円(現在は1万倍・4億円)という巨額の利益を手にしました。
この頃、総一郎の甥・泰仲が上京しました。「お前に頼みが有る。お前の叔父・貫一の遺骨を氷見の家に持って行ってくれ。それに5000円(両に換算・5000両)のお金を渡す。お熊婆さんの借金(300両)を返済してくれた山崎さんや、お母さんに自由に使ってほしい」「叔父さん、それは多すぎるよ」「いや利子が入ってるだけだ。これで俺も肩の荷が下ろせる。今日から本名で生活したい」
総一郎はこの日、大塚屋の看板を下ろし、「浅野商店」という看板に掛け替えました。大熊良三は、浅野総一郎に“改名”しました。本当のスタートです。
彼はこの後、日本で初めてという事業を一杯行います。このスタートが「日本で初めてコールタール事業に成功」した人です。
次に行ったのが「日本で初の西洋式便所(当時の表現です、お許しください)」を設置した人です。時の神奈川県令の依頼です。当時の横浜は外国人も大勢いる国際都市です。すでに市中には共同便所が83有りましたが、ひどく粗末なものでした。
もっと清潔な設備にしないと、彼は常に地図と仕事に付随する設計図には、細心の注意を払って準備していました。3日の猶予を頂ければと、驚くほどおしゃれなデザインの6角形の洋式公衆便所でした。明治12年早々に工事が始まり瞬く間に仕上がりました。「秀吉の一夜城」的ですが、スピードも信用のうちです。これも上手くいきました。
石炭商としてもコークス商としても成功した総一郎が他の経済人と肩を並べるようになるまで、あと一息です。次回に。
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