大磯歴史語り〈財閥編〉 第68回「浅野総一郎【18】」〈敬称略〉 文・武井久江
前号は炭礦の話でしたが、彼はすぐ次に走ります。この石炭を運ぶ大量輸送を考えました。「東京までの鉄道を作ろう」、海上ルートではコストがかかり、危険も伴います。陸上で石炭を運べば、磐城炭礦の経営状態は一気に回復します。
そんな時、岩倉具視達華族が出資して誕生した、半官半民の鉄道会社、日本鉄道は上野を出発し、宇都宮・郡山・福島を経て仙台に向かう東北本線を完成させました。内陸部を通って東北に通じる鉄道で、北日本の交通の便が一気に改善されました。浅野たちは、福島の平町(現在いわき市)から上野まで太平洋岸を走る鉄道の計画を、日本鉄道社長・小野義真と長時間かけて協議し、鉄道の建設の合意に達しました。
この建設の出願書を、鉄道局長官・井上勝に提出しました。後に、小岩井農場(小野義真・井上勝・岩崎弥之助)設立の人達です。井上は、長州藩出身で、長州ファイブの一員で「鉄道の父」と呼ばれた人物です。出願書を見て、井上はびっくりします。「海岸線を敷設されては、日本鉄道の東北線が山側だけしか目がいかなかったことになります。その線路は、日本鉄道が設計全部を譲り受け、敷設すべきもの」との意見に、逆らうことが出来ず、日本鉄道に全て任せる代わりに、磐城炭礦の石炭を格安で輸送することで合意し、鉄道事業から手を引くことにしました。
この海岸線は、明治30年に完成しました。今の常磐線です。次は、前に1度お話しましたが、戦いの場は石炭やセメントという「山」だけでは有りません。「海」も新たな戦いの場です。三菱商会と共同運輸は二年余りの死闘を繰り広げた結果、明治18年(1885年この年に岩崎弥太郎死去〜彌之助の代に変わりました)に合併、日本郵船が誕生しました。日本郵船は、事実上三菱が経営の主導権を握っていました。海運業界の中では、圧倒的な巨大会社で、「独占の弊害」も有りました。
総一郎は、「自分の会社で使う石炭とセメントだけでも、自分の船で運びたい」この思いを、渋沢栄一に相談、出資を願い出て明治20年4月に浅野回漕部が発足しました。日本郵船が独占していた海運業界への参入、前途多難ですが、スタートを切りました。さて次は、どこへ向かうのでしょうか?
総一郎の人生の基軸は「近代国家を創る」ですが、重厚長大のイメージが有りますが、セメント・石炭・海運等の堅いイメージが有りますが、意外な事業にも関心を示しました。ビール業界です。では次回。
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