日本国憲法の制定過程から学ぶ 吉田内閣の成立と枢密院での憲法改正草案の一時撤回 〈寄稿〉文/小川光夫 No.62
1946年5月14日、吉田茂は自由党総裁の就任を受諾した。組閣に取り掛かった吉田は、「政治家達は戦時中には軍部の独裁に屈してきたし、政策的な能力もない」として三木武吉総務会長、河野一郎幹事長などを参謀から外し、官僚を中心とした組閣を行った。それに対して河野一郎は大石倫治、北昤吉、荒船清十郎らを引き連れて猛然と首相官邸に押し掛けた。一旦は河野らに妥協した吉田であったが、鳩山との「人事には干渉しない」との約束を持ち出し、再び吉田好みの起用を主張したことからまたもや事態は紛糾した。
5月21日、夜になって自由党総務会が開かれたが、総務会では社会主義よりだとされる和田博雄が農相に抜擢されたことで吉田の除名の怒号が飛び交った。総務会は夜を徹して紛糾するが、そうした中で総務会長三木武吉は、自由党内部の混乱を避けるために「吉田が参内(さんだい)して閣僚名簿を奉呈すれば事は済む」と書記官長予定の林穣治に助言した。朝になって、河野一郎が外相官邸に電話したことにより吉田の参内を知った総務会は、総務会決定を得ずに参内したことへの吉田への批判が相次いだ。しかし吉田の参内を画策した三木は、自由党政権を獲得するためには吉田茂に頼らざるを得ない、として党内意見を取り纏めた。
こうして5月22日、第一次吉田内閣が誕生するが、そのことにより枢密院(4月22日の第1回から5月15日まで第8回の審査委員会が開かれていた)での諮詢中の憲法改正草案は一時撤回されることになる。政府は5月27日に、憲法改正草案に若干の修正を加えて「帝国憲法改正案」として枢密院に再諮詢をし、5月29日より6月3日までの間に3回の審査委員会の会議を開いた。その会議の席上吉田は、「ポツダム宣言が日本国民の自由な意思表明による政治形態の決定であることを要求している以上、国民の代表とはいえない枢密院による修正はできない」として、審査委員会における意見を押さえ込んだ。この会議で林頼三郎顧問官が吉田内閣に国の一大事である憲法の制定を「なぜこのように急ぐのか」と質問したところ、吉田は「GHQはGo Home Quickly(すぐに家に帰りなさい)の略語であるという人もあり、GHQに早く帰ってもらうためだ」とユーモアを交えて答弁した。
帝国憲法改正案は、6月8日になってようやく天皇臨席の下による枢密院本会議で起立多数により可決することになる。その時も三笠宮崇仁親王が、「本会議では、改正手続きのみ改め、憲法制定議会において制定すべきである」と発言して退席し、美濃部顧問官も反対の意思を表明した。
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