日本国憲法の制定過程から学ぶ 吉田茂の大磯随想について 〈寄稿〉文/小川光夫 No.68
吉田茂が出筆した『大磯随想』という本の最初の一部を掲げてみた。久し振りにこれを読んで見ると、吉田茂が外交官・政治家として生きた時代と現代社会を比較して見ても、政治的には悲しいかな少しも代わっていない事がよく分かる。むしろ敗戦で打ち萎れる日本を何とかしようという気概について考えるのならば、吉田茂が生きた時代の政治の方がまだましであったし、国民も緊張感を持って生活をしていたような気がする。政治の貧困、それはまた同時に日本のマスコミの貧困にも起因しているような気がする。政治の貧困を連日のように誇張し続け、また弱い人間の愚かさを滑稽に民衆にアピールすることだけでは決して政治の貧困は解決されないし、民主主義の本質もまた導くものでもない。そんなことを考えながら次の吉田茂の本の一説を読んでもらいたい。
「日本では現在、政治の貧困ということが叫ばれている。事実、日本の政治は貧困に違いない。だが、ある種の人が今更、誇張して貧困を言う気味もある。今の政治形態ではいけない、デモクラシーではやって行けない、という方向へ論理を持って行くために、政治の貧困を誇張する向きもある。すると、それは民衆にアピールする、事実、貧困なのだから。しかしそれは現在の議会政治否定の方向を示すもので、我々は十分に注意する必要がある。全く政治は貧困である。…現に日本にはデモクラシーというものはなかった。それが戦後になって与えられた。我々自身の努力によって手に入れたデモクラシーではない。日本のデモクラシーは、出発後まだ日が浅く、大分部の民衆はその真意を理解していない。そのために議会政治にも貧困性が現れているが、我々は議会政治より他に日本の向う道はないと思っているから、あらゆる努力をして、そこへ行かなければならない。それが旨くいかないのは、政治家が無能であり、多少有能と思われる人達が戦後に追放され、七、八年後に解除された時は呆けていた。呆けていない者も時代のズレが出来ていた、ということである。
新しく出てきた人が無能だとは思わないが、まだ政治的な訓練と経験を積んでいいないために、国家を背負うだけの力が足りない。これらが日本の政治を貧困に陥らしめたと思う。これを思う通りにしたいと思っていても、直ぐに効き目のある薬などはない。気長に民衆にデモクラシーの本当の意味を体得させるように教育する他はない。しかるに政府の方は、そうした意欲を失わせるようなことばかりしている。それは目先に重大な事件が後から後から起って、それに翻弄されるからでもあるが、日本の現状では何事でも壁にぶつかってしまう。この壁を突き破る為には、国民的な一つのムーブメントが興らなければならない。
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