明治150年記念連載 大磯歴史語り 第18回「寺内正毅【1】」文・武井久江
昨年の4月から大磯に在住された8人の総理大臣を語ってきましたが、やっと4人の方(伊藤博文・山縣有朋・大隈重信・西園寺公望)が終了し、残すところ寺内正毅・加藤高明・原敬・吉田茂となりました。お住まいが残されているのは稀で、今回語ります寺内邸はもちろん増改築を重ねられ、和館と洋館が保存されています。ただご子孫がお暮しですので一般の公開はありません。
寺内正毅は、嘉永5年(1852)閏2月5日生まれ、長州藩の下級武士・宇多田正輔・猛子の三男として、現・山口県山口市平井で生まれます。のちに母方の寺内勘右衛門の養嗣子になります。実家の宇多田家は皆様もご存知でしょうか、あの歌姫・宇多田ヒカルは「曾姪孫」に当たります。明治・大正時代の軍人・元帥・朝鮮総督・第18代総理大臣になられた方です。長州藩は高杉晋作が文久3年(1863)藩主に進言し、身分に関わらず人材を集める奇兵隊を編成します。後に軍閥の師に当たります、山縣有朋ともここで出会います。
長州藩は諸隊を編成します、八幡隊・膺懲隊(ようちょう)・集義隊・遊撃隊・御楯隊・鴻城隊・南園隊・奇兵隊・第2奇兵隊・荻野隊が隊の編成でした。慶応元年(1865)に10隊1500名の組織になっていました。大楽源太郎(漢学者)の私塾「敬神堂」で学び、御楯隊隊士となり、慶応2年(1866)14歳の時に四境戦争(第2次長州征討)に参加。2年後16歳で戊辰戦争に従軍し、箱館(函館)五稜郭まで転戦、その戦いのたびに山田顕義や大村益次郎に認められ、京都の河東操練所に入り、フランス式歩兵術の訓練を受けます。寺内は14歳から多感な時期に陸軍へ従軍し、最激戦となった田原坂の戦いで負傷。右腕の自由を失い、彼だけは敬礼の時に「左敬礼」を許され、この時の怪我から戦場には出られず戦功を立てられないのに元帥まで進んだのは凄いことです。では次回。写真は遠目からとさせて下さい。(敬称略)
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