明治150年記念連載 大磯歴史語り 第25回「加藤高明【5】」文・武井久江
加藤高明は今回で終了です。加藤内閣は前回のお話で総辞職をしましたが、実はその頃から健康に不安を感じていました。また、実際は護憲三派内閣を第1次内閣、憲政会単独内閣を第2次内閣として、総理を続投しました。5月5日の普通選挙法公布に当たり、実はその前の4月22日に治安維持法が公布されていました。加藤にとって良い事と、悪い事を同時に通さざるを得なかったのです。この法案が成立するまでには長い前史があり、ロシヤ革命や、日ソ基本条約も関係しています。政治活動への法的制約は、政党嫌いだった山縣有朋の内閣時の「治安警察法」明治33年(1900)にさかのぼり、この法律は長く存続されて昭和20年まで続きました。治安維持法もGHQの指示により、この年に廃止されました。
加藤は治安維持法協議中に、心労から体調を崩していましたが「吾輩が1日休めば、国が1日足踏みをする」と議会に出ていました。更に、政友本党の掲げる税制案と何とか妥協案を見いだそうとしましたが結局、妥協点が見いだせないまま年末に議会が始まり、大正15年(1926)、年が明けすぐに加藤は風邪をこじらせてしまいます。3年前にも風邪から肺炎になったことがあり、本来なら休養をすべきでしたが無理をして国会に出席したことで、症状はさらに悪化していきました。1月20日は憲政会の議員総会、21日は衆議院・貴族院で施政方針演説を行わなければなりません。加藤の病は重くなり、声を出すのも辛く、小さく、その事で「聞こえない」と野次が飛ぶようになりました。それでも翌日の議会で答弁に立ちましたが、歩くこともできない状態で、閣僚から帰宅静養を言い渡されます。その後、彼は自宅で床に就くと、起きて立つことは有りませんでした。26日に、加藤の希望により若槻礼次郎内務大臣が臨時の総理大臣に就くことを知り、28日の朝、容体が急変し加藤は大正15年1月28日に66歳の生涯を終えました。現役の総理大臣として、始めて亡くなった方です。本当にお疲れ様でした。(敬称略)
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