明治150年記念連載 大磯歴史語り 第40回「吉田茂【7】」文・武井久江
戦後の総理大臣になっての吉田を語ります。前回テレビドラマのお話をしましたが、その中で白洲次郎も麻生和子も反対していたように、総理大臣を引き受けることは吉田にとって大変な決断でした。組閣直前にGHQが、鳩山一郎総裁を始め多くの人を政府・民間企業の要職から外す公職追放の処分をしました。結果、吉田が自由党総裁に推挙されそのまま総理に就任しました。当時はまだ旧憲法下で、大命降下といって天皇が候補者に総理就任を命じられる最後の該当者が吉田でした。医師会会長で喧嘩太郎の異名で名高かった武見太郎は、牧野伸顕の孫と結婚した関係で吉田茂(牧野伸顕の娘・雪子と結婚)とは姻戚関係であったことは、ご存知ですか。その武見が吉田が総理大臣を引き受けたと聞いて「組閣してやっていく自信がおありですか」と聞いたと言われています。その時に「戦争に負けて外交に勝った歴史があるから」と毅然と答えたことから、武見はその気概に感動して組閣に献身的な協力をすることになりました。
敗戦から戦後改革期における吉田の役割の中で、第一次吉田内閣にとって最初の課題は憲法改正でした。GHQが作成した草案をもとにする憲法改正案は昭和21年(1946年)6月20日に国会に提出され、日本国憲法は10月7日に成立、11月3日に公布されました。その後、農地改革を進め、また経済安定九原則に基づく財政整理を実施して、インフレを抑えることに努めました。第三次内閣のとき朝鮮戦争がおこり、警察予備隊(自衛隊の前身)を創設、さらに戦後最大の課題である戦勝国との講和条約の交渉を勧めました。1951年、ソ連や中国を含む戦勝国全体との講和(全面講和)をすべきだという革新勢力の反対を押し切ってサンフランシスコ講和会議に首席全権として臨み、第二次世界大戦で敵国とした55か国のうち、48か国と講和条約を結び、日米安保条約に調印し、独立回復を実現させました。(敬称略)
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