大磯歴史語り〈財閥編〉 第14回「岩崎久弥と長女・澤田美喜」文・武井久江
今回は澤田美喜によるエリザベス・サンダース・ホーム設立に関してのお話をして、次回から父・久弥の話に戻りますが、ここで財閥の戦後について少しお話します。マッカーサーは、日本の非軍事化と民主化を目的とする占領政策を推し進めました。戦争犯罪人の処罰、個人の自由と民主主義の推進が続く中で、GHQに対応できなかった東久邇宮稔彦内閣が総辞職し、幣原喜重郎(岩崎弥太郎の4女の夫)内閣が誕生しました。幣原は、久弥にとって義弟にあたります。この幣原のもとで三菱をふくむ四大財閥に解体を迫る指令がGHQ(総司令部)から発せられたというのも、因縁めいた巡りあわせでした。その時三菱を率いていたのは、4代目小弥太でした。三菱本社は、「自発的に」解散すべしとの日本政府の指示を、「国策の命ずるところに従い、国民としてなすべき当然の義務に全力を尽くしたまで」と、社長の小弥太は拒否し続けました。しかし、国はそれを許しませんでした。この事もきっかけになり、小弥太は病魔に侵され、その年の12月2日の夜、66歳で亡くなりました。美喜もこの年に、三男・晃を戦争で20歳の若さで亡くすことになります。
美喜は、第二次大戦後日本に進駐してきた米兵と日本女性の間に生まれた混血孤児のために尽くしました。終戦後、全国で混血の子が捨てられたり、社会から疎まれたりしていることに憤りを覚え、彼らの「母」になることを決意します。家族や教会関係者の協力のもと、持ち前の行動力でGHQや日本政府に混血孤児の救済を働きかけました。様々な中傷や誹謗の中で挫けそうになると、父・久弥を千葉県の末広農場に訪ね、アドバイスを求め、励まされやる気を取り戻しました。ホーム建設のための資金集めに奔走します。本来は、大磯の別邸は父が美喜に譲りたかったと嘆きましたが、その土地は財閥解体と共に政府に物納されていました。初めて2人の子どもを聖路加病院から引き取る時に、父が出来る唯一の事としてロールスロイスの車を手配し、その車で子どもたちを連れて大磯へ向かいました。美喜は2000人以上の子どもたちを立派な社会人として育て上げました。そして今年は、美喜生誕120年です。この記念すべき年に記念館が公開になり、海の見えるホールで偲ぶ会が出来たら、どんなにうれしいか、ただただ祈るのみです。写真の部屋で、美喜は世界中の方に支援の手紙を書き続けましたが、残念なことにスペインで講演旅行の途中に亡くなりました。78歳の生涯でした。(敬称略)
|
|
|
|
|
|