大磯歴史語り〈財閥編〉 第19回「住友寛一」文・武井久江
4大財閥の初回として、三菱財閥(始祖・岩崎弥太郎、弥之助、久弥、久弥の長女・澤田美喜)を語りましたが、これから語ります住友・三井・安田、さらに8大財閥・15大財閥と続くなかで、三菱だけ自分の姓を冠名にしていません。今回から三井に進もうと思っていたのですが、その前に少し住友について取り上げます。財閥編はあくまでも大磯に関わる、本宅を構えたり、別荘をもたれたりした方を皆様にお知らせする語りですが、今回の住友寛一は、厳密に言いますと財閥ではありません。何故かというと、父は住友本家・15代の住友吉左衛門友純(ともいと)、母は住友吉左衛門友親の長女・満寿の長男として生まれ、本来は16代を継ぐべき人でしたが、病弱で繊細なその性格故に大正5年(1916)に分家した人です。大磯には、昭和7年(1932)に東小磯池見堂近くに別荘を構えました。財閥を継いでおらず、住友財閥は大磯には住んでいませんので、住友寛一を外そうとも思いましたが、住友財閥は偉大な財閥ですので、変遷はお話したいと思いました。今後語る、三井財閥・11世北家・三井八郎右衛門高棟は城山公園に昭和23年まで住まわれていましたし、安田財閥・始祖・安田善次郎も大正10年まで王城山麓に住まわれていました。住友は寛一の弟が継承、16代当主となった住友吉左衛門友成です。伯父に徳大寺實則・西園寺公望(大磯に隣荘という別荘があります)がいます。寛一は芸術宗教に惹かれ、若くして絵画に傾倒したため、廃嫡されました。
住友の始祖は、とても古く桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目の子・小太郎(忠重)が父の姓と名をとって「住友」の姓を称して室町将軍に仕えたのが始まりです。住友家には、住友家の「家祖」と、住友家の事業の「業祖」の2人がいます。住友政友(家祖)には一男一女があり、息子の政以には「富士屋」の跡を継がせ、娘の婿養子に蘇我理右衛門(業祖)の長子・理兵衛友以(住友友以)を迎えました。明治期に入って、住友事業は12代友親、その子13代友忠の下で営まれましたが、友親・友忠が1890年に相次いで亡くなります。ここで、男系相続者が途絶えてしまう悲運に見舞われます。次号で、もう1回だけ住友を語ります、何故かというと三井家に実は何人も住友家の女性たちが嫁いでいます。友純の妻・満寿の妹・楢光は、三井十一家の一つ「三井永坂町家」の八代目当主・三井高泰(守之助も大磯に別荘あり)に嫁いでいて、三井の5家と閨閥が拡がっているからです。(敬称略)
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