大磯歴史語り〈財閥編〉 第70回「浅野総一郎【20】」〈敬称略〉 文・武井久江
歴史語りを書くにあたって沢山の本を読み、出身地を訪ね菩提寺・生家・現在のお墓をお参りして今まで語り、タウンニュースの原稿も書いてきました。特に本は、作者の意図によってこんなにも違うのかと毎回悩まされます。だからこそ沢山の中から真実を探す、この事に1番時間が掛かります。ここだと決めたら、書くのは早いのです。
今回サクを書くにあたってある本は、1ページほどしか書かれていませんでした。彼女の働きは総一郎にとってかけがいのない原動力でしたが、あくまでも総一郎だけの働きとするのか?サクが病に倒れてからの彼の憔悴ぶりはそれは凄いものでした。
3ヶ月の闘病生活のすべてを、緊急な用事以外は自宅に籠り、妻の傍にいて看護しました。勿論人手がないわけでは有りません。子供や孫迄合わせれば、その数は100人は超えるし、専属の看護婦もいました。総一郎は、ただひたすら妻の傍を離れずにいました。
そんな時でも確かに仕事は忙しく舞い込みます。サクが倒れる1年前、大正天皇が崩御され多摩御陵造営用のセメントの発注が舞い込みました。名実ともに日本一の品質のセメント業者として認められたわけです。サクにとってもこの上なくうれしい事でした。命の火が消えかかってるこんな時にも新しい展開が有りましたが、総一郎は妻の傍を離れたくなかったので、その事に最初は耳を傾けませんでした。
セメントは初期の頃は樽詰めでしたが、運搬のたびに粉がこぼれることがとても気がかりでした。それを解決したのがアメリカ人・ベーツが開発した五層式紙袋でした。サクの容体が悪くなり気もそぞろで大量注文しました。それから数日後の、昭和2年4月10日、午後1時56分、16歳の時から駆け出し時代の総一郎と苦楽を共にした糟糠の妻・サクは71歳で永眠しました。
総一郎は、昭和3年に完成した群馬県の巨大水力発電所に「佐久」という名前を付けました。サクは単なる「糟糠の妻」というより「同志」のような存在でした。勤勉な妻を尊敬し、刺激を受けていました。何事も真っ先に相談するのもサクでした。誰よりも働く自分にとって必要なのは、誰よりも働く妻でした。
そんな総一郎でしたが、明治13年に24歳の時、サクは三女・コウを出産しました。しかし半年後に総一郎の妾にも女の子が出来ましたが、妾は体が弱く子育てが出来ない、この子を育ててくれと。サクはこの子を自分の娘として、その時生まれたコウと双子として育て、二人は成人するまで信じていました。そんなサクの一生を皆様はどんな風に感じられたでしょうか?
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