終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第10回はひっそりと佇むプロペラ型の碑(市内沼代98付近)。旧日本軍の上原重雄中佐の壮絶な戦死を記している。
1945(昭和20)年2月17日、愛川町の第22航空戦隊長として上原中佐が着任して間もなくのこと。相模湾沖に進行した米軍航空母艦から発進した戦闘機600機が関東を襲った。米軍は本土の目標に超低空からの集団攻撃をしてきた。
翌日の午前10時頃、南下してきた大編隊の群れが、上空を我が物顔で米軍機が飛び交っていた。その日は、上原中佐らの部隊は朝鮮平壌への移駐が決まり、軍からは迎撃中止が命じられていた。しかし上原中佐は敵機の振る舞いに祖国の行く末を案じてか、部下隊員らを格納庫になだめおき、独り大空へと飛び立っていった。
大群の中への単機特攻。不運にも被弾し、機は相模湾上空で反転。飛行場への帰還に向かったが、後続隊との挟み撃ちに遭い上空で炎に包まれた。碑には、中佐の最後について『天蓋から身を乗り出して北方の皇居に両手を上げ決別。そのまま機とともに自爆し壮絶な戦死を遂げた』と記されている。当時を知る高齢者らは、映画さながらの壮絶な空中戦を「走って見に行った」と口々に話した。
スマトラ島のパレンバン航空隊を拠点にニューギニア戦線まで遠征し活躍、B-17爆撃機を迎撃するなど「偉勲の戦士」とも称された上原中佐。碑は中佐の搭乗機「疾風」の残骸を陸軍が回収しに来た際に、「偉勲の戦士」の最後を見届けた農家の1人がプロペラを隠しておき、碑を作ったのだという。
2011年、墜落現場が草で覆われていたことから、「みんながお参りできるように」と碑を作った農家の子どもの手により約2キロ離れた場所へ移設された碑。以来、上原中佐を偲んで献花に訪れる人が後を絶たない。
現在遺影は福泉寺(沼代547)で保管されている。同寺の野田隆生住職は「数年前、娘だという女性が手を合わせに来られた。『その時』、お腹の中にいたのかもしれない。ほんの70年前にこんなことがあっただなんて」と言葉を詰まらせた。
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