NHK大河ドラマ「真田丸」は、いよいよ小田原合戦の放送が近づいてきた。北条氏の誇る総構を、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、21万とも22万ともいわれる大軍で包囲した。徳川、毛利、細川、長宗我部ら全国の名だたる武将らは果たして市内のどこに陣を張ったのか。その歴史の跡を追ってみた。
案内役を買って出てくれたのは、小田原城研究第一人者の田代道彌さん(81)。小田原市史に掲載されている『小田原城攻囲陣立図』を作成した一人だ。
秀吉軍の中で、現在でも陣場跡が最もはっきりしているのが徳川家康。今井村(今の寿町、小田原大橋交番前の交差点をビジネス高校方面にまがった辺り)の柳川家に陣取った家康は、堀や土塁をめぐらせた城のような陣を築き、東照宮も建立した。跡を管理する子孫の柳川泰久さんは4年前に東照宮を改築。近所の人の憩いの場として今でも活用している。
肥後・熊本の細川忠興は、板橋地区の箱根外輪山から早川に向かって突き出した小高い山に陣を張った。形が富士山に似ていることから「富士山(ふじやま)」と呼ばれた山に築かれた砦は、秀吉の命を受け、細川が北条側から攻略したもの。石垣山を背に、新たに総構の方向に堀を築いている。
秀吉の甥、羽柴秀次は、久野の辻村植物公園東側の高台に陣を取り、現在の関東学院大の辺りまで張出し、総構に迫った。大学内には、張出した時の堀が地面に表面表示されている。また久野の総世寺には、秀次が寄進した銅鐘が残っている。県の指定文化財で、鐘の音は成人式の日と5月の第2土曜日の年に2回聞くことができる。
織田信長の次男、信雄の陣は、多古の白山神社が建つ台地の上に張られていたとされている。かつては白山中学の中に堀がみられたと言うが、今は確認できない。
天正18(1590)年6月26日、秀吉は湯本の早雲寺から石垣山一夜城に本陣を移す。周りは石田三成、大谷吉継、小早川隆景など全国の大名がにらみを利かせた。籠城を続けていた北条氏政・氏直は7月5日、開城を決めた。
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