昭和〜平成時代に、型破りな構図と独特の色使いで活躍した日本画家・片岡球子。教育者の顔も持つ彼女は今、教員時代の思い出の地・光秀山浄永寺(城山)で永久の眠りについている。
球子が小田原にやってきたのは終戦1年前の1944年8月のこと。戦禍を逃れ、大岡国民学校(横浜)の児童を連れ、浄永寺に疎開してきた。当時、小学3年生だった中橋教樹住職(83)は「子どもにも、自分にも厳しい方だった」と記憶している。率先して寺の掃除を買って出たり、熱を出した児童に一晩寄り添って看病するなど、模範となるべく自らの行動で示していたという。
子どもたちを寝かしつけた後は、6畳一間の一室で、夜な夜な創作活動に没頭していた。浄永寺とのつながりはその後の作品にも反映され、代表作の一つ『面構・日蓮』は同寺の日蓮聖人木像をデッサン=写真=して、仕上げたとされている。
終戦後、球子は先代住職の故・中橋教徹氏に「私が死んだら、ここにお墓をお願いしたい」と告げて帰浜。以後、愛知芸大で学生らに教鞭を取りながら、『面構』や『富士』シリーズなど次々と世に送り出した。その間、手紙や贈り物のやり取りなどを通し、寺との縁は途切れることがなかった。
2008年、103歳の寿命を全うした球子。生前の約束を継ぎ、境内奥に建立された墓所には、直筆の名が彫られている。かつての教え子が時折参る姿もあり、彼女の姿を見て教員の道を歩んだ中橋住職は「個性を曝(さら)け出す描き方、生き方を示してくださった」と語った。=関連にまちあるきガイド
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