太平洋戦争が終結した1945年8月15日。相原俊夫さん(82)は当時、県立小田原中学(現・小田原高校)の2年生だった。当時も今も市内浜町の国際通り「中六」の並びにある住まいで、相原さんは15日未明、日本最後の空襲を体験した。
今年で終戦69年。戦後生まれの相澤知行さん(59)と、戦争を知らない世代の2人(鈴木圭祐君・山北高校3年/小柳沙織さん・小田原高校1年)が、小田原空襲の様子を相原さんに聞いた。
―高校生の2人は、小田原で空襲があったことを知っていましたか?
鈴木・小柳 知りませんでした。当時の様子を教えてください。
相原 1931(昭和6)年生まれの私は当時、「日本は絶対に戦争に負けない」と信じる、小田原中学の2年生でした。終戦直前の8月13日には、新玉国民学校(現・新玉小学校)が空襲を受け、先生と用務員さんが亡くなっています。またバッテリー製造の海軍指定工場だった湯浅蓄電池(扇町・現アマゾンの場所)にも爆弾が落とされ、工員13人が犠牲になりました。当時我が家は祖母、父、妹2人の5人家族。15日の空襲は、時計を見る余裕もなかったけれど、午前1時半から2時頃だったと記憶しています。
相澤 終戦の日の空襲は、小田原に余った爆弾を捨てていったという話を聞いたことがあります。
相原 正確な資料は無いのですが、伊勢崎と熊谷を攻撃したB29が、帰路に小田原上空で残った焼夷弾を投下したという説があります。
あの日は、シャーッとかザーッとか、にわか雨のような音がして焼夷弾が降ってきて、辺り一帯が非常に明るくなりました。
3歳の妹を祖母が、1歳8カ月の妹を私が抱いて城山方面に逃げました。今の商工会議所の前に、初代小田原市長の益田信世さんのお宅があり、ひとまずそこに腰を下ろしました。無我夢中だったのですが、自宅のある方角を見たら空が真っ赤でね、途端に怖くなりました。
浜町では402世帯が焼け、12人が焼夷弾により亡くなっています。小田原に落ちたのは、油脂焼夷弾と言い、破裂すると飛び散って一斉に火が付くものでした。近所でひどい火傷を負った人や、ケロイドが残った人もいます。
「非日常」を生きた日常
小柳 衣食住の面ではどんな生活だったのですか?
相原 主だった物資は切符による配給制で、白飯は滅多に食べられませんでした。サツマイモを粉にして団子にしたものをよく食べていましたね。
同じ市内でも、中心地から離れた富水や栢山には、米も野菜もありました。家にある着物を持って物々交換に出かけました。戦後、学校の授業が再開したときも、僕ら焼け出された者は、ふかしたサツマイモを新聞紙にくるんで持っていっていたけれど、農家の子は真っ白なお米をお弁当箱いっぱいに詰めてきたりね。見るに見かねて分けてくれたりもしました。
小柳 私と同じような年の子たちも、戦争に「参加」したのですか?
相原 若い男性は徴兵されていたので、町内には年寄、女性、子どもが残っていました。女学生は竹やり訓練に参加したり、兵隊さんのために千人針をお願いしたりしていましたよ。
相澤 終戦はどうやって知ったのですか?僕は両親から、玉音放送を聞いた話を聞きました。音声が不鮮明でよく聞こえなかったって。
相原 火事の焼け跡で片づけをしていたら、友だちが来て、「日本は戦争に負けたぞ」って言うんです。でもにわかには信じられなくてね。後から知ったことですが、玉音放送のあった8月15日の朝刊には、ポツダム宣言を受諾した旨の「詔書」が掲載されていました。あと一日、いや半日早く戦争が終わっていたら、私の家は焼かれなくて済んだのに、と悔しかったです。
世界に誇れる日本の平和
―生活はどのように再建したのですか?
相原 ひと月ほど親戚の家に身を寄せている間に、父と一緒に材木を集めて、元の家があった場所に、それまでの3分の1ほどの家を建てました。9月からは2学期が始まり、普通の学校生活に戻ったのです。
相澤 僕は戦後生まれだから、幸い餓えとは関係なかったけれど、子どもたちはみなガツガツしていました。あまりにもたくさんの人が亡くなる戦争は嫌だ、緊張の中で生きていくなんて二度と嫌だ、と両親は言っていました。僕は21世紀って戦争のない世界だと思っていた。世界は1つの国になっているのかなって。だけどまだ世界で争いは起きている。日本人はみんな「人として生きる」ということを考えなくてはいけないと思います。
相原 そうですね。あの時を思うと、今のように食べ物を残すなんて、とてもできない。戦争だけは二度と起こしてはいけないし、日本があれ以来一度も戦争をしていない、仕掛けていないということは世界に誇れることだと思います。
鈴木 小田原の空襲が、日本で最後の空襲だということを初めて知り、衝撃でした。自分の知る場所が戦禍にあったことも驚きましたし、相原さんに聞いたことを友人などにも話して広げていきたいと思います。
小柳 戦争について「歴史上の出来事」という認識でしたが、相原さんのお話を聞いて戦争の理不尽さ、悲惨さを感じました。毎日おいしいご飯が食べられる、教育が受けられるという、当たり前のことに感謝しながら、戦争の事実を私たちより後の世代にも伝えていかなければならないと感じます。
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