間もなく7月から耐震工事に入る小田原城は、今年「55歳」を迎える。今から55年前の1960(昭和35)年5月25日、かつて小田原城主だった大久保氏の直系子孫や、アメリカ横浜総領事、市内各官公署など約1300人が参列し完成式が行われた。当時の鈴木十郎市長は「郷土愛の象徴。訪れる人々の心を豊かにするものがあればうれしい。ほぼ全世帯など、想像以上の協力を得た。みなさんに感謝したい」と喜びを表した。
城に刻む強い思い
小田原藩は度重なる天災と補修により、小田原城修復に財政が耐えられない状態だった。そのため明治維新後の1870(明治3)年、小田原城は民間に払い下げられ取り壊しとなる。
1923(大正12)年の関東大震災や太平洋戦争などを経て、朽ち果て往時の姿をなくした小田原のシンボルを、もう一度復興させようという動きは終戦後の混乱の中、市民の中から湧き起った。各町内会では、天守閣再興の前段階として天守台を復活させるため、寄付を募る「天守閣石一積運動」が興る。55(昭和30)年に完成した石積工事の費用249万円の約1割にあたる24万円は寄付で集まった。市民の「小田原城再興」に対する想いの強さがうかがえる。
天守台の再築により復興の機運は高まり、56(昭和31)年、商工会議所が「小田原城天守閣復興促進会」を発足。翌57年には市が動きだし、後に復興基金を設立した。募金額は個人から企業まで合わせて2161万1452円にものぼり、総工費約8000万円のうち、市民らの好意で集まった寄付が4分の1を賄った。
また59(昭和34)年から並行して行われた「天守閣復興瓦一枚寄付運動」。100円か300円の瓦を購入し、それを天守閣に設置するという運動では240万円が集まった。天守閣に使用された瓦は6万3440枚。約3分の1にあたる2万1366枚に、復興を望んだ市民らの名前と想いが今も刻まれている。
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