終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第19回は多感な中学生時代に、戦争一色の日々を過ごした中野恒郎さん(85)。
太平洋戦争開戦の翌年、旧小田原中学(現小田原高校)に進学した中野さん。娯楽が少ない戦争下、楽しみといえば野球部の試合観戦だった。「兄の友人が所属していて、練習試合にも足を運んでいました」
だが、戦争はスポーツにも暗い影を落とし始める。ストライクは「良し」、ボールは「だめ」。野球用語にすら外来語が禁止されるようになり、新聞記事も扱いは小さくなるばかり。そして戦況が悪化してきた1943年秋、文部省は海外から伝わったスポーツを「敵性」として弾圧。剣道、柔道、相撲、国防競技以外の運動部はすべて解散させられることになった。
解散を惜しみ行われた記念試合の相手は旧小田原商業(現小田原総合ビジネス高校)。現在の小田原競輪場が建つ場所にあった「小峯公園球場」は、生徒で満員に膨れ上がった。何度も対戦を重ねてきた両校の最後の試合は小田原中が1対0で勝利。試合後に練習場へ戻ってきてからも、部員たちはいつまでもユニフォームを脱ごうとしなかった。「彼らの悔しさは察するにあまりある。名残惜しかったのでしょう」
翌夏、中野さんら3年生は学徒動員で川崎市の日本光学工業(現ニコン)へ配属。住み込みで爆撃機の部品を作っていた。毎回空振りに終わる空襲警報に慣れっこになっていた45年6月11日。昼の休憩中に忽然と姿を現した米軍機に機銃掃射を受け、工場を貫通した銃弾を受けた同級生が命を落とした。戦争の脅威を身近に感じ、「間違っても口に出せなかったけれど、こんなところにいたくないと思った」と打ち明ける。
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戦後、当時の野球部のメンバーが小田原高校の応援に行くたびにつぶやいていた言葉を思い出す。「平和な時代に野球ができるって、本当に幸せだよなあ」
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