1945年8月15日未明。現在の本町や浜町の地域に焼夷弾の雨が降り、一帯は火の海と化した。太平洋戦争の終結を告げる玉音放送がラジオから流れたのは、それから約10時間後のこと。小田原は、実質的に空襲を受けた国内最後の地となった。終戦から72年。米軍の記録に残されていない史実を後世に伝えようと、市民団体「戦時下の小田原地方を記録する会」では今も証言の収集に奔走している。
8月15日午前0時過ぎ。埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市でほぼ同時刻に空襲が始まり、合わせて約2万5000人が被災した。両都市を襲った計1000機を超える米軍機は、任務を遂行するとマリアナ諸島の基地へ向けて次々と南下。そのうち1機の爆撃機B29が、相模湾上空に差し掛かる直前に爆弾を投下させた。
「米軍では空襲で余った爆弾を、安全上の理由から帰還前に海上などへ捨てるルールがあった」。そう語るのは、15年前に地元の戦争被害をまとめた書籍『小田原空襲』(夢工房)を出版した同会事務局長の井上弘さん。多方面への取材により、国際通り上空から焼夷弾が落とされる前には照準を定める照明弾が投下されていたことも判明。単なる不要な爆弾の「処理」ではなく、民家を狙った意図的な「攻撃」であったことが伺えた。
ところが、あくまでも計画外の空襲だったため、米軍のオフィシャルな資料に攻撃の記録は一切残されていない。空襲直後に迎えた終戦の混乱のためか国内でも被害調査は行われず、その詳細は戦後しばらくわからぬままだった。
そこで同会代表の飯田耀子さんが約20年前、被害を受けた地域を一軒ずつ訪ねて当時の様子の聞き取りを実施。その結果、空襲による火災で約400軒が消失し、12人が犠牲となっていたことが明らかとなった。「なぜ終戦当日に家を焼かれなければならなかったのか」と嘆く声も多かったという。
証言が鍵
小田原空襲の痕跡を残そうと、同会は被害を受けた旧古清水旅館の協力により、当時の様子を記した説明板を2007年に本町の現場に設置。「語ってくれる人がいるかぎり」と聞き取りも続け、年2回発行の冊子『戦争と民衆』などにまとめている。「記録がないからこそ証言を大事に、オーラルヒストリーとして後世に伝えたい」。来夏の出版に向け、現在は書籍の編集作業にあたっている。
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